同志社女子大学のあゆみ

~1876

創設までのあゆみ

同志社の創設者である新島襄は、1864年に函館から国禁を犯して脱国し、アメリカのボストンに渡りました。フィリップス・アカデミー在学中に洗礼を受け、アカデミー卒業後にはアーモスト大学、アンドーヴァー神学校でそれぞれ学び、日本にキリスト教主義にもとづく新たな学校を設立することを目的に1874年に帰国しました。

帰国した新島襄は、のちに京都府顧問となる山本覚馬と協力して、1875年に同志社を設立しました。なお、山本覚馬は、鳥羽伏見の戦で薩摩藩京都藩邸に幽閉された際、薩摩藩主に提出した『管見』のなかで「女学」という項目を設けて、女子教育の重要性を強調しており、新島襄とともに、一日も早く京都にキリスト教主義女学校が設立されることを願っていました。

宣教師の派遣団体であるアメリカン・ボードの J.D. デイヴィスは、新島の同志社英学校設立に協力するとともに、英学校と「ペアの関係にある」キリスト教主義女学校の必要性を主張し、設立の準備を整えました。そのような中、結婚したばかりの新島襄・八重夫妻は、自宅で学校を始めます。アメリカン・ボードと協力して活動する女性たちの集まりであるウーマンズ・ボードは、アメリカ独立百周年を記念した募金活動で、「京都の女学校」建設を呼びかけ、6,000ドルを超える募金が寄せられました。

新島は、同志社英学校の開学当初から「社会の発展には女子教育を盛んにすることが不可欠」との考えを持ち、妻・新島八重とともに「女学校」の開設を進めることとなります。

新島襄
(1843~1890)

高い志を掲げた同志社創立者

J. D. デイヴィス
(1838~1910)

同志社英学校設立の構想が持ち上がったときから、それとペアの関係にある女子の教育機関の必要性を主張した。

山本覚馬
(1828~1892)

J. D. デイヴィスとともに、京都にキリスト教主義の女学校を設立することに力を尽くした。

新島襄・八重夫妻

1876年1月3日御苑内柳原邸にてJ. D. デイヴィス司式により京都で初めてのキリスト教式結婚式を挙げたころ

1876~1877

京都における キリスト教主義女子教育のはじまり 女子教育のはじまり

同志社女子大学の起源は、1876年、京都御苑内のJ.D.デイヴィス邸(旧柳原邸、現京都迎賓館の位置)内に開設された「女子塾」にあります。来日した女性宣教師A.J.スタークウェザーの書簡には、「デイヴィス氏が許可を得てこの市に居住するようになってからちょうど1年を迎えた記念日の5日後、10月24日から正規の授業を始めました」と紹介されています。寄宿学校であったことから、「Kioto Home(京都ホーム)」とも呼ばれました。開学当初の生徒数は12人。「女子塾」では米国人宣教師A.J.スタークウェザーを中心に、八重も教鞭を執っています。こうして、京都における最初のキリスト教主義の女子教育が始まりました。

新島八重
(1845~1932)

新島襄の妻。女性宣教師スタークウェザーとともに女子塾を開校した。

A. J. スタークウェザー
(1849~1921)

同志社女学校初代女性宣教師で、明治初期の京都にキリスト教主義女子教育の道を切り拓いた。

京都ホーム時代から学んでいた生徒たち

1877~1912

同志社女学校最初の校舎

ウーマンズ・ボードの募金によって1878年7月、常盤井殿町二条邸跡に建立(版画)

同志社女学校の創設、 そして充実、発展へ

J.D.デイヴィス邸(旧柳原邸、現京都迎賓館の位置)に誕生した「女子塾」は、1877年4月に「同志社分校女紅場(にょこうば)」と名称変更しますが、その教育目的が女紅場の名称に相応しくないという京都府からの申し立てにより、5ヶ月後の9月に「同志社女学校」と改称しました。その後、1878年には、校舎を上京第十一区今出川通(現・今出川キャンパス)に移転します。新島の同志社女学校には、「女学校生徒に人権を重んずべき事と慷概心を起さしむる事」への期待と、女性たちが「世の改革者、いや、改良者」となることへの希望が込められていました。

本学の発展に貢献した人物として、「同志社女子部の母」と呼ばれた、M.F.デントンの存在があります。M.F.デントンは、1888年に来日して以来60年もの長きにわたり、信仰に基づく愛情で女子教育に情熱を注ぎました。教育に力を注ぐ一方で、自らは清貧の生活をしながら巨額の寄付を集め、その寄付によって同志社女学校は校地を拡張し校舎・学寮を建て、教育設備を整備することができました。

M. F. デントン
(1857~1947)

同志社女子部の母。アメリカン・ボードの女性宣教師として来日し、60年間の長きにわたり女子教育に情熱を注いだ。

新島八重と同志社女学校初期の生徒たち

第7回女学校卒業式(1889年6月)

1912~1949

大学設立に向けて。 女子高等教育の始動

「同志社女学校」は1912(明治45)年に専門学校令により「同志社女学校専門学部」となり、英文科と家政科が設置されます。当時より家政科では英語を活用した講義が行われていました。また、英文科の卒業旅行は満州朝鮮で行われていました。 1922(大正11)年には女性初の校長として松田道(みち)が就任。常に生徒の人格を認めて自覚を促す姿に、生徒たちは大いに感化されたといいます。開学当初12人だった生徒は、1927(昭和2)年には高等女学部も含めて1,449人に達するまでになります。その後1930(昭和5)年には、「同志社女子専門学校」と改称。タイプライティングの授業が行われるなど、先駆的な女子専門教育が行われていました。

専門学部発足により順調な発展を続けますが、1930年代の不況と戦時下体制の逆風に向かっていくことになります。

5〜6月頃に栄光館前に咲くカルミア

松田道
(1868~1956)

同志社女学校初の女性校長(1922年2月~1928年1月)
1924年貞明皇后行啓の際には準備に奔走し、当日は一行を先導した。

同志社女学校

1920年代中ごろの普通学部、専門学部全校生、ジェームズ館東側

栄光館

1932年2月11日竣工式
設計は明治後期から昭和初期にかけて活躍し、
関西近代建築の父と呼ばれた武田五一氏。

5〜6月頃に栄光館前に咲くカルミア

1949~1986

リベラルアーツ・カレッジとしての出発。 としての出発。 同志社女子大学の誕生

第二次世界大戦後の1947(昭和22)年、教育基本法とそれに基づく学校教育法が公布され、6・3・3・4制の学制が発足することになりました。「同志社女子専門学校」はこれを受けて、1949(昭和24)年に「同志社女子大学」となります。初代学長には、E.L.ヒバードが就任。リベラル・アーツを本学の性格に規定し、校名の英語名もDoshisha Women’s College of Liberal Artsと決まりました。学芸学部のなかに英文学専攻、音楽専攻、食物学専攻の3専攻を設けるかたちでスタートしました。1952(昭和27)年には食物学専攻を家政学専攻へ改称、1965(昭和40)年には3専攻をそれぞれ学科に改組します。また1967(昭和42)年には、家政学科を発展的に解消して家政学部を新設しました。

ジェームズ館前芝生での語らい

E. L. ヒバード
(1903~1999)

同志社女子大学初代学長(1949年~1950年在任)
学芸学部のなかに英文学専攻、音楽専攻、食物学専攻の3専攻を設けるかたちでスタートした。

同志社女子大学英文学専攻第1期生
(1953年3月卒業記念)

1986~2000

新たな学びの可能性を求めて。 田辺キャンパス開学

一方、同志社大学・同志社女子大学の発展にとって大きな課題となったのは、今出川キャンパスのスペース不足でした。問題の解決のため、1966(昭和41)年と1968(昭和43)年に京都府南部に約100万㎡という広大な面積の土地取得(うち約12.7万㎡が女子大学)が行われ、運動場とグリーンチャペル、課外活動用の小規模な宿泊施設からなる「田辺学舎」が設置されました。その後、田辺学舎は修養会やクラブ合宿などに利用され、多くの学生に親しまれましたが、本格的な田辺校地利用計画の中で、1984(昭和59)年9月30日に閉舎、翌年1月に撤去されました。1986(昭和61)年には田辺キャンパス(1999(平成11)年に京田辺キャンパスに改称)が開学し、同時に開設された短期大学部とともに、今出川・京田辺の2キャンパスによる新たな歴史がスタートしました。その後、音楽学科、英文学科(現英語英文学科)、1989(平成元)年に開設した日本語日本文学科が田辺キャンパスを学びの拠点とし、今出川キャンパスに残った家政学部は1995(平成7)年に生活科学部と改称しました。

1967年当時の女子大学田辺校地

同志社大学にさきがけて整地された(1967年)。

完成間近の女子大学田辺キャンパス

1987年3月27日に、同志社大学と同志社女子大学合同による田辺校地竣工式が催された。

短期大学部開学式(頌啓館ホール)

田辺キャンパス開設と同時に新設された短期大学部。開設当初より全国短大の中でもトップクラスと言われ、社会からの評価は高かった。

2000~現在

6学部11学科を有する 女子総合大学へ ~いつの時代も、新しきを生きる~

2000(平成12)年以降は、社会の動きや現代女性のニーズの多様化に対応すべく、現代社会学部社会システム学科を皮切りに情報メディア学科(現メディア創造学科)、現代こども学科、薬学部医療薬学科、国際教養学科、表象文化学部の開設と短期大学部の廃止、そして2015(平成27)年には看護学部看護学科を新たに開設。これにより現在は6学部11学科1専攻科4研究科を擁する日本有数の女子総合大学となり、知性豊かで志の高い、自立した女性を育成し、社会の要請に応えていきます。

1876(明治9)年の創立からまもなく150年。
時代とともに大きくその姿を変えてきた同志社女子大学ですが、
「キリスト教主義」「国際主義」「リベラル・アーツ」
これら3つの教育理念に基づく教育は現在も脈々と受け継がれ、
未来へとさらなる発展を続けています。