#43 同志社女紅場の創設

歴史

吉海直人(名誉教授)

 こうしてデイヴィス邸(旧柳原邸)に誕生した「女子塾」は、翌明治10年(1877年)4月に発展解消し、「同志社分校女紅場」としての開業認可を受ける。ここに覚馬が京都女紅場を新設した経験が活かされているに違いない。それもあって明治10年4月23日に同志社分校女紅場の開業願が京都府勧業課に届け出られると、4月28日には早くも認可されている。それもそのはず勧業課は覚馬が新設したものだし、その課長明石博高(ひろあきら)(ひろあきら)は覚馬の教え子だったのだから、すんなり許可されないわけはない。

 最初の女子塾(京都ホーム)は認可を受けていないので、スタークウェザーがヘッドで運営しても問題ないのだが、女紅場の開業願提出になると、書類上外国人は雇われ教師の身分となり、校長は新島襄と明記せざるを得ない。英学校では新島もアメリカン・ボードの一員なので、新島が校長兼教師で全く問題になっていない。それに対して女紅場・女学校では実質と名目(書類上)の二人校長体制になった。

 これについては既に坂本清音氏が、デイヴィスの書簡に、

女学校にはスタート以来、学内に誤解があった。それはスタートの仕方─学校にヘッドがいたままスタートしたこと─に問題があった。外国人の側は、女学校なのだから当然ヘッドは外国人女教師(この場合、ミス・スタークウェザー)と考えていたのに対し、日本人側は女性が学校を経営するという考えは全く理解できず、経営者は日本人(この場合、新島襄)と考えていた。(『女性宣教師「校長」時代の同志社女学校上』同志社女子大学資料室15頁)

 と書かれていることを指摘しておられる。これは女紅場や女学校には認可が必要なことが斟酌されていないことで生じたのであろう。また経営者・校長・教師と創立者の区別が不分明であることにも問題がある。スポンサーであるウーマンズ・ボードが承知しないのももっともである。また同志社側として、何としても創立者を新島にしたいという思いがあることもわからなくはない。

 その女紅場の開業願に添付されていた学科目(綴字、正音、作文、文法、算術、地理、理学大意、万国史、修身学、裁縫、日本学)について意見書が付いた。教育目的が実用的な「女紅場」の名称に相応しくないというのである。そもそも「女紅」は勧業授産のための実学、「女学」は婦女子の才芸知識を開達するための教養(リベラルアーツ)であった。「新島設立の如き女紅場は名称を転じ女学校と改正すべし」とのお達しを受けたことで、5ヶ月後の9月に「女紅場」を「同志社女学校」と改称することになる。実は女紅場は勧業課、女学校は学務課と管轄が異なっていた。あらためて学務課に書類を提出して認可を受け、女学校として再出発する。これが京都初のキリスト教の「同志社女学校」の誕生秘話であった。

 その後、明治11年(1878年)には、御苑の整備計画(大内保存事業)によって柳原邸からの立ち退きが命じられた。もし柳原邸にそのまま女学校が存続していたとしたら、御所にもっとも近い御苑にある女学校として有名になったであろう。やむなく校舎を上京第11区今出川通(現・今出川キャンパス)に移転する。ここは二条家(旧摂関家)邸宅跡である。日本全国探しても、旧摂関家の邸宅跡に学校があるのは、同志社女子大学だけである。9月には新島襄の新居と女学校の新校舎が完成した。