#42 女子塾の創設

歴史

吉海直人(名誉教授)

 さて、同志社女子大学の起源は、明治9年(1876年)、京都御苑内のデイヴィス邸(旧柳原邸、現京都迎賓館)に開設された「女子塾」にある。同志社英学校を設立した三人は、引き続き女子の学校設立をも構想していた。同志社英学校創設に情熱を注いだ新島にしても、「社会の発展には女子教育を盛んにすることが不可欠」との考えを持っていたとしても、新島は同志社英学校校長として、そして牧師として多忙を極めており、それを実行するゆとりなどなかった。

 むしろ女子塾設立は、新島以上に覚馬とデイヴィスの方が熱心だった。というのも覚馬は、『管見』の中で「学校」とは別に「女学」という項目を設けており、女子教育の重要性を誰よりも熟知していたからである。その具現として、逸早く京都に女紅場を開校したのだが、それだけでは十分とは思っておらず、英学校同様にキリスト教思想に基づく女学校設立を望んでいた。仏教や儒教の教えには懐疑的だったからである。

 おそらく三人の中でもっとも熱心だったのはデイヴィスであろう。神戸で既に宇治野英語学校を立ち上げ、さらに女子の神戸ホーム(現神戸女学院)も設立していた。そのノウハウで御苑内の自宅(旧柳原邸)に早速女子塾(京都ホーム)を立ち上げた。デイヴィスからすれば、神戸女学院大学と同志社女子大学は姉妹校になる。

 ところで女子塾の創立には前史、つまり家塾があった。それは同志社英学校が創立された時からわずか2、3か月後である。明治9年2月、結婚したばかりの八重と宣教師ドーンの妻(デイヴィス夫人ソフィアの姉)の二人は、八重の自宅で女子塾のようなものを始めたという記録がある。

・明治九年の頃でありました。私の宅が今の第一高等女学校の南東の角にありました時、某宣教師と談話の末、女学校を始ては如何であろうといふ事になり、取敢へず私の宅で開きました。其時の生徒が三人でありまして、妙な事に其中に九歳になる男子もありました。其時某宣教師が歌を教える、私が第一リーダーを教えるといふ様な始末で、之が今の同志社女学校の基でありました。(「女学校期報」24)

・時日は明治九年の二月であったと覚へて居ます。(女学校期報39)

・その時の生徒は三人であって、妙な事に九歳になる男の子がいました。他の二人は女の子で姉妹でしたが、残念な事にその男の子は恥ずかしかったのか、中途で止めてしまい、女生徒の姉の方は病気で死に、妹は勉強が嫌になってやめ、(同志社創立90周年記念誌)

 残念なことに、この家塾はすぐに自然消滅しているので、創立記念日には採用されていない。しかしながら八重はこれを「同志社女学校の基」と述べている。これはきわめて個人的な見解だと思っていたところ、ウーマンズ・ボードの機関紙『女性のための生命と光』(6巻5号・1876年5月)という雑誌の‘Our Japan Home’に、近く日本にホームを作る見通しがあること、それは日本の精神的中核の地である京都であり、既に京都で女子のための塾がアメリカン・ボードのドーン宣教師夫人(Mrs. Edward Topping Doane)と新島夫人の監督のもとで始められていると紹介されていた。八重の話は本当だったのだ。

 その家塾を引き継ぐ形で、今度はスタークウェザーと八重による女子塾がスタートした。そのスタークウェザーの書簡に「十月二十四日から正規の授業を始めました」とあることから、この日が女子塾の創立記念日になっている。この場合の「創立」というのは、授業を開始した日ということになる。宣教師夫人である八重は、かつて女紅場で教師として働いた経験があるので、その実績で女子塾でも教師として働くことができたのだ。というより日本人の協力者の存在は必須であった。

 なおデイヴィスが招聘したスタークウェザーは、ウーマンズ・ボードから派遣された独身の女性宣教師である。当時、アメリカン・ボードから派遣される宣教師は、男性に限られており、女性はその配偶者のみであった。ドーン夫人も八重もその例である。しかしウーマンズ・ボードの発足により、初めて独身女性宣教師の派遣が可能となった。これによって同志社英学校はアメリカン・ボードからの宣教師、同志社女学校はウーマンズ・ボードからの女性宣教師(及び宣教師夫人)とすみ分けられることになる。だから同志社女子大学にとっては、ウーマンズ・ボードの方が重要だった。

 考えてみると、スタークウェザーはデイヴィスが呼び寄せ、八重は覚馬の息がかかっているのだから、まさに女子塾はデイヴィスと覚馬がお膳立てしたといってよさそうである。