#39 同志社女学校の第一期隆盛期

歴史

吉海直人(名誉教授)

 女学校の運営が比較的円滑に行われていた時期がある。それは明治12年(1879年)のことである。もともと女性宣教師がスタークウェザー一人だったことが人材不足を生じさせていた。本来ならば明治10年にH・F・パーミリーとJ・ウィルソンの二人を雇い入れ、三人体制で女学校を運営する予定だったが、雇入願は許可されなかったからである。もし許可されていれば、そのうちのどちらかが舎監になっていただろう。ところがこれによって人手不足に陥ってしまい、佐久に舎監を任せるしかなかった。

 幸い明治12年に、同志社英学校を卒業した宮川経輝と加藤勇次郎の二人が女学校のスタッフに加わった。しかもその翌年にはようやくパーミリーの雇い入れが許可されたことで、都合四人体制となった。こうして明治14年には無事第一期卒業生を送り出している。それ以降、女学校の卒業生から助教も輩出している。この人材不足解消の時期が第一期隆盛期というわけである。

 しかしながらそれは長くは続かなかった。というのも、明治15年にはパーミリーの一次帰国、加藤勇次郎の退職、さらに宮川経輝も牧師となるために退職したからである。しかも肝心のスタークウェザーまでもが体調不良を理由に明治16年に帰国してしまった。四人体制の四人全てがほぼ同時期に女学校からいなくなったのである。この時期の教師はみんな数年でやめている。ある意味女学校の教師は腰掛でしかなかったのだ。長期に亘った教師は、デントンまでもう少し待たなければならなかった。と同時に優秀な卒業生から教師を輩出することが俟たれる。

 もちろんパーミリーの代わりにA・Y・デイヴィスとフーパ―が赴任してきたが、そこで積年の問題が爆発し、遂にいわゆる「明治18年事件」が勃発した。なお女学校と同じような主権争いは、同志社英学校でも明治29年(1896年)に宣教師団引き上げ事件として起こっている。

 ところで丸七年を京都で過ごしたスタークウェザーは、病のために本国で静養することとなり、明治16年(1883年)5月5日に帰国した。その後の彼女の消息は長い間不明だったが、近年になって1921年(大正10年)10月4日にカリフォルニア州サンディエゴで亡くなり(享年71)、マウント・ホープ霊園に埋葬されていることが判明した(八木谷涼子氏の調査による)。スタークウェザーの日記などは残されていないのだろうか。

〈参考〉
・本井康博氏『「同志社の母」スタークウェザー―同志社女学校の始まり―』(同朋舎新社)令和3年10月