人物
吉海直人(名誉教授)
新島の女子教育観はと尋ねられたら、私は新島の明確な女子教育観は見出しにくいと答えるだろう。同志社大学のみならず、同志社女子大学の校祖ともされている新島に対して、それはあまりにも無礼だとお叱りを受けそうだが、そのことは既に女子大学では共有されていた。というのも『記念写真誌同志社女子大学125年』に、新島の消極的な女子教育関与と記されているからである。そもそも新島は女子教育のノウハウなど持っていなかった。
新島は日本に実母とみを残して渡米したが、アメリカでの生活の中で、実母のように親身になって新島の世話をした女性が三人いた。それはハーディ夫人とシーリー博士夫人、そしてミス・ヒドンである。ハーディ夫人は足掛け十年もの間、経済的に新島を支援しただけでなく、実の子のように愛情を注いでいる。それは新島が帰国した後もずっと続いた。シーリー博士はアマースト大学の教授で、新島が学寮に入るまでの三週間、博士の家に滞在させてもらっている。その時からシーリー夫人との親密な交流が始まった。新島は入寮した後も、しばしばシーリー家を訪れ、我が家のようにシーリー家に溶け込んでいる。ミス・ヒドゥンは、新島がフィリップスアカデミーに在学していた時の下宿先の女主人である。
「アメリカの母」たちとも称される三人の女性は、みな信仰篤い婦人であり、愛情細やかに新島に接している。新島が失意の時も病床にある時も、慰め励ましてくれた。また各々の家庭にあって、ニュー・イングランドの典型的なクリスチャン・ファミリーの生活を彼に体験させている。それは八重と結婚した後、新島の理想的夫婦生活のモデルともなっていた。
しかしながら新島は、「アメリカの母」たちがどのような女子教育を受けていたかについて、ほとんど関心を示さなかったとされている。中でもハーディ家に娘がいなかったことで、アメリカにおける女子教育について実見する機会を失したようだ。新島が通ったアーモスト大学の近くに、マウント・ホリヨーク・セミナリーがあり、岩倉使節団の通訳としてそこを訪ねているが、特に女子教育に注目した様子は見られない。
そもそも新島には四人の姉たちがいたが、その姉たちが江戸でどのような教育を受けたかに関心もなかった。だから日本を出る以前の新島が、女子教育について無関心であっても不思議ではなかった。その新島がアメリカで生活する中で、キリスト教の学校を設立することに情熱を燃やしたとしても、それはあくまで男子の学校でしかなかった。当然、帰国した新島に女学校設立という熱意など無きに等しかったはずである。
結婚したばかりの八重は、ドーン夫人と女子塾を立ち上げているが、そこに新島の関与は認められない。これはあくまで宣教師夫人の役割だったからである。一方デイヴィスは、英学校設立の時点から女子教育機関の必要性を主張しており、アメリカン・ボードに女性宣教師の派遣を要請していた。それが具現してスタークウェザーが来日した。そのスタークウェザーと一緒に女子塾を立ち上げたのは、やはり八重だった。ただし場所を含めて、デイヴィスによってすべてがお膳立てされていたことを看過してはなるまい。
女紅場開業願いや、スタークウェザー雇入願は新島の署名で提出されているが、それをもって新島の女子教育への意欲を読み取ることはできそうもない。もちろん新島は女学校設立に反対していたわけではない。しかし英学校設立時の熱意に比べると、かなり消極的であった。新島における女子教育観については、むしろ松浦政泰など後の人々が、英学校に連動させて女学校の創立者として新島を位置付ける際、理想的な女子教育観が創作されたのではないだろうか。