#35 同志社女子専門学校から同志社女子大学へ

歴史

吉海直人(名誉教授)

 大正時代になって、大きな教育の転換期が訪れる。それ以前は男女別学で、男子校と女子校に別れていたものが、ようやく共学化が進んだからである。大正9年(1920年)に大学令が施行されたことで、同志社大学は私立大学の中ではいち早く女子にも門戸を開いた。1923年には、同志社女学校専門学部英文科の卒業生四名が同志社大学の本科生として受け入れられている。ということで令和5年(2023年)は、同志社大学における男女共学実施100周年の年でもあった。

 もっとも本格的な同志社大学の共学化は、第二次世界大戦後を待たなければならなかった。昭和22年(1947年)、日本政府はGHQ(連合国軍最高司令部)の指導のもと、教育基本法とそれに基づく学校教育法を公布した。これにより長い間日本の中高等教育を支配していた男女別学が見直され、教育における機会均等が推進された。時代に先駆けて女子の入学を認めていた同志社大学にしても、昭和23年(1848年)に共学の新制私立大学として再出発した。

 同志社が共学になったことで、女子高から大学へ直接進学できるようになったのだが、それと同時に女子大学の必要性が認識され、あえて女子大学の設立が増加した年でもあった。最初に新設されたのは、津田塾大学・東京女子大学・日本女子大学・聖心女子大学・神戸女学院大学の五校である(関西は一校のみ)。これ以降、女子生徒には共学の大学へ進学するか、それとも女子大学へ進学するかの選択肢が生じた。

 同志社女子大学の新設が遅れたのは、同じ学校法人の中に共学の同志社大学があったからである。理事会で、共学の大学があるのにあえて女子大学を設置することの必要性・意義が議論された。幸い湯浅八郎総長の理解・賛同を得て、同志社女子大学は同志社大学とは異なる「リベラル・アーツの大学」として新たな道を踏み出すことになった。

 ところで同志社女学校には、明治45年(1912年)に専門学校令により「同志社女学校専門学部」ができ、英文科と家政科が設置された。これはかつて松浦政泰が設置した専門科を発展させたものである。大正11年(1922年)には松田道(みち)が女性初の校長として就任し、生徒たちを大いに感化させている。

 松田は覚馬の作った女紅場を卒業後、同志社女学校に入学している。ちょうど明治十八年事件が勃発した際、生徒たちが学校存続の嘆願書を提出しているが、その清書を担当したのが松田であった。松田はその後フェリス英和女学校・同志社女学校専門科で英語を学び続け、第一回米国奨学生としてプリンマー大学に留学して研鑽を積み、帰国後に母校の教師となっている。

 開学当初わずか12人だった女学校の生徒数は、昭和2年(1927年)には1449名に達するまでになっている。その後、昭和5年(1930年)に専門学部は同志社女子専門学校と改称し、先駆的な女子の高等専門教育が行われた。

 戦後、全国的に共学化が進む中、同志社女子専門学校は、リベラル・アーツ教育を重視する女子大学に改組された。これはもちろんアメリカの名門女子大学が念頭にあってのことである。校名の英語名はDoshisha Women’s College of Liberal Artsとされた。そのリベラル・アーツの日本語訳である学芸学部(一学部)の中に、英文学専攻、音楽専攻、食物学専攻の三専攻が設けられた。初代学長にはE・L・ヒバードが就任した。なお日本語の「学芸」は、教育大学の前身が学芸大学としていたこともあって、誤解されることも少なくない。

 それでもリベラル・アーツは、同志社女子大学開校以来の建学の精神である。これがあるからこそ同志社大学とは校風が異なるのだし、全国の女子大学との違いでもあるのだから、そのことを教職員は共有すべきである。