#34 デントン先生

人物

吉海直人(名誉教授)

 同志社の創立後に教師として赴任したことで、始まりの歴史には名をとどめていないものの、開校後の教師の中には同志社の歴史や繁栄を語る上で絶対に外せない人たちが何人もいる。その例として同志社英学校のドウェイト・ウィットニー・ラーネッドと同志社女学校のメリー・フローレンス・デントンの二人があげられる。

 ラーネッド(1848年~1943年)はアメリカの大学で教えた経験のある優秀な宣教師兼教師であった。それ以上に特筆すべきは、同志社で教鞭をとった期間の長さである。彼が来日したのは英学校が開校した直後であり、明治9年(1876年)の4月から英学校で教えている。彼が担当した科目は専門の神学だけでなく、数学・物理学・天文学・ギリシャ語・ラテン語など多岐にわたっていた。信じがたい才能である。ラーネッドは同志社の知能といえる。

 それからラーネッドは半世紀以上同志社で教鞭をとっており、大正8年(1919年)には同志社大学の学長にも就任している。そして昭和3年(1928年)に退職してアメリカに帰国しているのだが、こんな優秀な教師がこれだけ長きにわたって教えたことは他に例がない。このラーネッドについて徳富蘇峰は、「記者が幼少の際、先生として師事したる人は、殆どいない。真に吾師といふを敢えてするものは、只ラーネッド先生一人のみ」と回顧している。そのラーネッドがよく口にしていたのは「LEARN TO LIVE AND LIVE TO LEARN(生きるために学び、学ぶために生きよ)」という言葉であった。

 一方のデントン(1857年~1947年)は、ラーネッドより9歳年少なので、遅れて明治21年(1888年)に来日している。彼女も就任以来昭和4年(1929年)まで半世紀近くも教鞭をとり続け、同志社女学校の発展にその身を捧げている。ただしラーネッドと違って、「校長」職に就くことは一度もなかった。

 それだけでなく、デントンは自分のためには質素な生活を送りながら、同志社に必要なものを贖う資金集めのためには国の内外の人々を自宅に招き、手料理でもてなした。そうやってデントンが集めた寄付金によって建築された建物は、静和館・ジェームズ館・栄光館などである。彼女はひたすら女子部の校地拡張・校舎・学寮の建設、教育設備の整備に務めた。

 そういった働きにより、デントンは「同志社女子部の母」あるいは「同志社の宝」と讃えられた。しかもデントンは定年後も帰国せず、そのまま女学校内のデントンハウスに住み続けている。第二次世界大戦中も日本に滞在することを許されており、女学校の生徒・教師・卒業生との交流を続けた。特に星名ヒサはデントンの後半生を献身的に支えた女性である。

 そして昭和22年(1947年)12月24日に亡くなった後、デントンは相国寺長徳院の墓地に埋葬された(左には星名ヒサの墓がある)。毎年命日には墓前礼拝が行われ、讃美歌が歌われている。なおデントンハウスは昭和35年に取り壊されたが、今出川キャンパス図書館の入り口近くには、「海をこえ国をもこえて神のみ手にむすばれしこの淑(よ)き人ふたり」「世界のはなうつし植うべきこの苑をのこしおきたるよき人ふたり」という歌2首(加藤順三作)が刻まれた石碑がある。「二人」とはデントンと星名ヒサのことである。

 そのデントンが常日頃口にしていたのは、「世界一よい国は日本、日本一よい都は京都、京都で一番よい学校は同志社、同志社で一番よいところは女学校」であった。毎年12月24日の命日には、お墓のある相国寺内長徳院にあるミス・デントン墓前で「ミス・デントン永眠記念墓前礼拝」が行われている。