歴史
吉海直人(名誉教授)
新島研究家・本井康博先生の著書『ハンサムに生きる』からは、教えられることが多い。その一つに「心和得天真」がある。それは「新島襄のことば」として、新島襄と八重の書が並べて掲載されているところである。なんでもないコラムに見えるかもしれないが、実は非常に面白い問題を孕んでいることがわかった。
まず新島が書いた書の方は、同志社の遺品庫に収蔵されている。一方の八重の書は、福島県立博物館が所蔵している。かつては五十嵐竹雄氏の所蔵だった。そのことは昭和21年7月21日から23日までのわずか3日間、会津若松市公会堂で開催された「会津人三人遺墨展覧会」の目録によって確認できる。ここにいう「会津人三人」とは、山川浩・広沢安任・新島八重子のことである。その八重の出品目録に、
心和得天真 出品者五十嵐竹雄
心の和きものその人は地を嗣がむ 出品者五十嵐竹雄
と出ていた。
八重の書には「新島八重子 七十七歳」と年齢が記されているので、八重が数え年77歳(喜寿)の時にしたためたものであることがわかった。それは1921年のことだった。その年、八重は広津家の人々と一緒に久々に会津若松を訪れている。その際、求めに応じて何枚かの書を揮毫したようである。現在確かめられるものだけでも、「心和得天真」以外に、
戊辰長月二十あまり三日さしのぼる月のいとさやかなるを見て 喜寿 八重子
・明日の夜は何国の誰かながむらむなれし御城に残す月かげ (白虎隊記念館)
・日々是好日 新島八重 七十七歳 (杉原早苗氏)
・勇婦竹子女史 七十七 新島八重子 (岩澤信千代氏)
の3点があげられる。また「会津会会報」19号(大正10年)所収の「文苑」の中に、
古里 新島八重子七十七
・東山弓張月はてらせどもむかしの城はいまくさの原
と出ており、これも会津若松を訪問した折に詠じた歌のようである。
話を「心和得天真」に戻そう。これは一般的に「心和すれば天真を得る」と読まれているが、「得」の終止形は「う」なので、古典的には「心和すれば天真を得」と読むのが正解である。またこれまで出典に関しては曖昧にされており、いかにも聖書の文言のように思われていた。もう一枚の「心和きものその人は地を嗣がむ」は、マタイによる福音書第5章5節の「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け嗣ぐ」である。ところがこちらは有名な漢詩の一節であった。李白の「清漳の明府姪の聿に贈る」という題の漢詩に、「心和得天真、風俗猶太古」とそっくりそのまま出ている。新島の書いた言葉だからと言って、必ずしも聖書とは限らないのだ。
それはさておき、かつて新島が書いた文言を、晩年になって八重は何故揮毫したのであろうか。それは八重が亡き夫の語り部となり、夫のことを語っていたからであろう。この書以外にも、八重は「美徳以為飾」や「志在千里」などかつて新島が書いた書をしたためている。そうすることで新島との一体化を計ったのかもしれない。
ところでこの文言は、特に同志社女子大学にとって、決して知らないでは済まされない重要なものであった。というのも現在、今出川学舎で地下に生協の食堂がある建物の名称に用いられているからである。今から50年以上前の1971年に家政学部の建物が新築された時、この文言に因んで「心和館」と命名された。その時には新島の書だけが念頭にあったはずである。ところが後に八重も同じ文言を書いていたことがわかった。だからこれからは、新島と八重に縁のある「心和館」ということにしていただきたい。