#31 八重夫妻とみつ坊

人物

吉海直人(名誉教授)

 明治20年、新島夫妻は北海道で静養している。友人の大島正健には(みつ)坊(正満)というやんちゃな三歳の息子がいた(1884年6月21日生まれ)。子供のいない襄と八重は、その満坊を我が子のようにかわいがった。二人にとっては至福の北海道滞在だった。そのエピソードが次にように書かれている。

 或る日のこと、小父さん小母さんは満坊を伴うて散歩にと出で立ったが、「小父さんの靴ばかり光って居て、坊のはきたないからいやだ」と小さい王者は頑張った。「初まったナ」と新島の小父さんは破顔一笑して早速上着を脱ぎ棄てた。そして懸命に小さい靴を磨きあげて、「ソラどうだ」と指し示した。

 暑い夏の日であった。木影の少い創成川のほとりを、右左から手を取られて満坊は歩を運んで居たが、そのうちにはたと歩みを止めて動かなくなった。なだめすかす小母さんの甘言には乗らなかった。玩具を買ってやるとの小父さんの術策にもその効が現はれなかった。困りはてた小父さんは、「それならこれか」といって静に膝を折り、その背を王者に向けて如何にと様子を窺った。小さき者の顔にニコリと笑がただよふと見るままに、洋服姿の小父さんの背に満坊は飛びついた。

 傘をさしかける小母さんは声をあげて笑って居た。傷のある眉間のあたりから小父さんは玉の汗を流して歩を運んで居る。門をくぐる客の様を眺めた父母は、「又やったナ」と叫んで入り来る新島夫妻と高らかな笑を取りかはした。 (『不定芽(ふていが)』8頁)

 この時の新島は随分楽しそうである。二人は後ろ髪を引かれる思いで北海道を後にした。それから9年後の明治29年、その満坊が父正健と一緒に京都へやってきた。既に新島は亡くなっていたが、正満は八重小母さんを訪ねている。

 玄関から「小母さん」と叫ぶ声に応じてまろび出た新島夫人は「先生の机の上に飾ってある写真の主が来たよ。満坊が来たよ。みんな来て御覧」と家中の人を呼び集めて珍客をとりまいた。「それこれが小父さんの御居間ですよ」と導き入れられた主なき室の一隅に立った小さい客は、生けるが如き小父さんの写真に対して更に眼をそこの机上に転じて見た。ありし日をそのままに、一糸乱れざるデスクの上に、洋服姿の己が写真が飾られて居るではないか。手をのべぬかしら、背をむけぬかしらと、ジッと壁の写真を見つめて居る間に、小母さんはデスクの上の写真と客の姿と小父さんのその大きな写真とを見較らべて、ソッと涙をぬぐわれた。「サー若王子へ行きませう。小父さんを喜ばせてあげて下さい」といはるるままに、満坊は又新島の小母さんと同車して東山をおとづれた。呼べども声なき墓石の前にぬかづく両人の姿を、小父さんはどこから眺めて居るのであらう。問へども答へぬ墓畔に立った小母さんは、「襄が達者で居たらばネー」とかすかな言葉を漏らして、又連れだつものの姿をジッと見入って居た。 

(『不定芽(ふていが)』10頁)

 泣かせるエピソードである。正満は後に同志社から離れ、東京帝国大学動物学科を出て動物学者として活躍した。著書『少年科学物語』の中で、田沢湖のクニマスが酸性の水流入でやがて絶滅することを予測したことでも有名である。また正満はカーネギー博物館でホランド博士(アーモスト大学学寮における襄のルームメイト)と面会した際、新島を知っていることで意気投合した。そのことについて正満は、今でも新島の小父さんが自分を守ってくれているのだと述べている。 別れに際してホランド博士は、「故国へ帰ったら、新島夫人に今日の愉快な会見のてんまつを伝へてくれ」とことづけた。実は明治20年8月19日の皆既日食観察のために来日したホランドは、その後でわざわざ京都に立ち寄り、新島夫妻と会っていたのだ。なおこの感動的な話は、昭和21年の暫定教科書『初等科国語八』に、「めぐりあひ」と題して掲載されている。