#30 新島夫妻の家庭生活

人物

吉海直人(名誉教授)

 晴れて夫婦となった二人は、積極的に西洋的なクリスチャン・ホームを営んだ。二人の新居は新島の借家(西京新烏丸頭町40番地)で始まった。ここは同志社英学校の開校日に祈祷会が開かれた家でもある。それは後の新島旧邸のすぐ近くだった。結婚して9ヶ月後にハーディ夫妻宛に送った手紙の中で、新島は「私は、わが家をアメリカで見たようなクリスチャン・ホームにしようと務めています」と記している(『新島襄の生涯』78頁)。これが新島の理想的家庭観だった。八重は新島の希望に寄り添ったのである。

 禁酒・禁煙の新島は、典型的なマイホームパパが理想だった。自宅と職場(同志社)が近かったので、お昼も家へ帰って食べている。食卓に上がるのは、和食よりも洋食が多かった。それについて八重は「家庭人としての新島先生の平生」で次のように語っている。

  朝は誠に早く起きます。六時半には朝飯をすまして、七時前には宅を出ますのが例でございました。同志社は、宅から八町ほどしか離れてをりませんので、毎日歩いて通ひました。お昼には必ず帰って、一緒に食事をいたすのでございますが、時によると、学校の食堂で生徒と一緒に食事をすることもございました。昼飯をすませますと、午後また学校へまゐりまして、四時頃に帰宅いたします。勉強は夜いたしますが、十時には必ず眠ることに極めてをりました。

  時間はなかなかやかましい方で、お昼は必ず十二時半までに帰るやうにしてをりましたが、時によって、学校の食堂で食事をしましたり、客と一緒に食事をすませます時は、必ず前に小使を使によこして、『今日は此方で昼食をするから、お前は先きへ済ませるがよい』と知らせてよこしますので、私は、一度も(むだ)に待ちぼうけしたことはございませんでした。 

 (『新島八重愛と闘いの生涯』172頁)

 新島は早寝早起きだった。食事に関して八重が「一度も待ちぼうけしたことがない」というのは、のろけのようにも聞こえる。結婚後の八重は、新島や宣教師夫人達から積極的に洋食や洋菓子の作り方を教わり、甘党の夫のためにせっせと料理をした(鹿の肉を焦がすという失敗もあった)。結婚の最大の意味は、新島にきちんと食事を食べさせることだった。当然八重も肉食・甘党に転じている。これこそが八重肥満の最大の原因ではないだろうか。

 なお八重の作ったお菓子としては、ジンジャーブレッド(パンではなくクッキー)とワッフルが知られている。新島は甘い物好きなので、まさにスイートホームだったわけである。これによって新島の健康状態はかなり改善されているので、新島にとって八重との結婚は大成功だったといえる。

 もちろん新島は大の蕎麦好きでもあった。八重はそのことも、「お蕎麦は大好物でした」(同173頁)と証言している。また料理以外のことについても、

  帰ってまゐりますと、玄関から、『今帰ったよ』と声をかけますから、私が出てみますと、袋を書斎の前へ投げ出したまま、裏へまはって畠を作ってゐることがよくございました。襄は、犬が好きで、いつも二三匹は飼ってをりました。病気になりましてからは、いつも二階の窓から庭を見下しては、犬の遊び戯れるのを見て喜んでをりました。 

(同175頁)

と語っている。新島が弁慶という名の猟犬(ビーグル)を飼っていたことは知られていたが、2、3匹飼っていたことは知らなかった。 新島は多趣味な人だった。手紙・旅行・食い道楽、そして狩猟も大好きだった。しかし射撃は下手だったようで、実戦経験のある八重から、「襄は鳥を撃ちに行くのではなく、鳥を追いに行っている」と酷評されている。これは撃っても当らないという意味である。新島は八重に冷やかされないようにと、生きた鴨を買って帰ったこともあった(『新島八重子回想録』91頁)。これには八重もあきれた。こういった八重のあけすけな証言(暴露)が、新島の信奉者から嫌われた原因なのかもしれない。それでも新島の私生活を知ることのできる貴重な資料なので、八重の懐古談はもっと有効に活用すべきであろう。