#29 襄と八重の結婚

吉海直人(名誉教授)

 夏の修行が認められたことで、明治8年10月15日に八重は襄と婚約している。かつて襄に八重との結婚を勧めた槙村正直だが、仏教界からの激しい圧力を受けたこともあって、八重は11月18日付けであっさりと女紅場を免職になった。女紅場を首になった八重の反応はというと、

 先日彼女は「いいのよ、これで福音の真理を学ぶ時間がもっととれるわ」と言っていました。 

(『現代語で読む新島襄』129頁)                 

だそうだ。やはり八重はただ者ではない。明治期の前近代的な京都で、八重の理不尽との闘いはまだまだ続く。というよりも、そこに八重は新たな生き甲斐を見出したのではないだろうか。

 明治9年1月2日、八重はデイヴィスから洗礼を受けてクリスチャンになった。新島の妻は絶対にクリスチャンでなくてはならなかった。新島にしても、今後の仕事にどうしても妻の助けが必要だったのだろう。婚約してからまだ3ヶ月も経っていないので、かなり性急な感もある。そして、翌3日にはデイヴィス邸(旧柳原前光邸)で新島と結婚式をあげた。いよいよ新島八重の誕生である。この時、襄32歳、八重30歳だった。仲人をしようといっていた槙村は出席さえしていない。

 新島はアメリカの母であるハーディ夫人宛の手紙で結婚を報告し、妻となった八重のことを、

彼女は決して美人ではありません。しかし私が彼女について知っているのは、美しい行いをする人(ハンサム・ウーマン)だということです。私にはそれで充分です。

と紹介している。新島としては八重を褒めたつもりかも知れないが、女心としてはちょっと無神経な言い方ではないだろうか。いずれにしても新島は、女性の外面より内面の美しさを尊重していたことがわかる。なお「ハンサム・ウーマン」は2005年に放送されたフジテレビの「離婚弁護士Ⅱ」(主演天海祐希)の副題にも用いられているが、流行したのは2009年の歴史秘話ヒストリア以降である(それ以前に八重がそう称されたことはない)。

 古い因習が残る前近代的な京都で、初の洗礼であり初のキリスト教の結婚式であった。そして同志社カップル第一号の誕生でもある。後の八重の社葬において牧野虎次が読みあげた八重の略歴には、「洗礼式と基督的結婚式とは共に京都基督教界に(おけ)る「レコード」なりき」(『追悼集Ⅴ』51頁)とある。当然、周囲の住民は驚いたことだろう。なお新島はプロテスタントの牧師であって決してカトリックの神父ではない。テレビのドラマで、マリア像だの十字架・ロザリオだのとカトリック風の映像が流れたりしているが、決して混同・誤解しないようにお願いしたい。

 これから八重には、新島八重そして牧師(宣教師)夫人・校長夫人としての新たな愛と闘いの日々が続くことになる。今後八重が背負うであろう艱難辛苦を、新島はどの程度理解していたのだろうか。とはいえ非常に質素な式で、かかった費用は二人が乗った人力車の車代10銭だけだったとのことである。参列者に振舞われたものは、八重手製のクッキーとお茶くらいだった。 ところで二人の結婚式に、遠く安中にいる襄の家族は出席できなかったが、その年の4月26日に新島一家(両親・姉みよ・甥公義)は総出で京都に転居してきた。一体、八重はどんな嫁だと思われたのか、聞いてみたい気がする。