#28 明治8年の八重の動向

人物

吉海直人(名誉教授)

 京都府立歴彩館には、明治初期の貴重な公文書が大切に保管されている。ほとんどは写しだが、それでも重要文化財に指定されている。その中に八重の貴重な資料がいくつか埋もれていた。まずは八重の辞令があげられる。

山本やゑ

 女紅場権舎長兼機織教導試補申付候事

   明治八年二月八日 京都府

 八重は明治5年4月に開校した女紅場(にょこうば)に「出頭女」として勤めていた。それから4年も経っているので、これは昇格の辞令であろう。最初から「権舎長兼機織教導試補」だったのではないので、この資料を明治5年に遡らせるのは危険である。

 次に八重の「休暇願」があった。

御暇願

  無拠用向有之下坂仕度候間来月四日ヨリ女紅場休業中間三十一日迄御暇被下度此段奉願候以上           女紅場権舎長

   明治八年七月           山本八重

 この願には対になる許可証も一緒に綴じられていた。

聞届候事

    権知事槙村正直殿代理

     京都府権参事国重正文殿

 「聞届(ききとどけ)」というのは許可するという意味である。では一体、八重は何のために1ヶ月近くも休暇を取ったのだろうか。これを襄の学校設立と連動させ、覚馬と一緒に大阪で学校設立の根回しをしたと見る人もいる。ところがその答えがデイヴィスの英文書簡の中に見つかった。クラーク宛のデイヴィスの手紙(明治9年2月15日付)に、

  She had during the summer visited Kobe and Osaka and spent some time in the homes of the Missionaries.

とあった(本井康博先生『八重さん、お乗りになりますか』参照)。現代語に訳すと、「夏の間、彼女(八重)は神戸と大阪に出向き、宣教師宅に滞在いたしました」となる。どうやらこの夏、八重は大阪や神戸の外国人居留地(宣教師宅)で、自らクリスチャンになるための修行をしていたようである。

 その成果が認められたのだろう、2ヶ月後の10月15日に八重は新島と婚約した。そのことは新島がアメリカのハーディ夫妻に八重との婚約を告げた11月23日付けの書簡の中に、

  私は彼女が洗礼を受けて教会に迎え入れられるまで待とうと思っていたのですが、その後、彼女の回心が明白である確証を得ましたので、全くためらうことなく婚約しました。

と書かれている(原文英語)。「彼女の回心が明白である確証を得ました」とあるのは、夏の合宿の成果を意味しているのであろう。これまで二人の結婚に関しては、襄の方が一方的かつ積極的だったとされてきたが、この1ヶ月の合宿という事実を勘案すると、八重の方もそのつもりで行動していたことになる。

 しかしそういった行動によって、八重は女紅場を免職させられる。幸いその辞令も残っていた。

山本八重

 女紅場権舎長并機織教導試補差免候事

   明治八年十一月十八日

非常に簡素な文面である。「差免(さしゆるす)」というのがやめさせることである。デイヴィスの書簡には、「理由を告げることなく」と書かれているが、こういった公文書はいちいち理由など書かないのが普通のようだ。このことは鴨沂会(鴨沂高校同窓会)『創立六十周年記念誌』にも、

 権舎長兼教導試補 五、四、二五 ~ 八、一一、一七  山本やへ

と記載されている。18日に罷免されているので、その前日の17日まで勤めたことになっているのであろう。 大河ドラマ「八重の桜」では、明治8年のことはほとんど省略されていた。しかしこの夏の合宿は、八重の人生において看過できない重要なできごとである。それを証明する資料が現存していたので、ここに紹介させていただいた。