#27 新島襄とクラーク

人物

吉海直人(名誉教授)

 みなさんは「ボーイズビーアンビシャス」といったクラーク博士のことはご存じであろう。ではそのクラークが新島襄や同志社と関係があることはご存じだろうか。ただし注意が必要である。というのも同志社大学にはクラーク記念館があるからだ。これは別人の寄付によって建てられたものなので、誤解しないでいただきたい。

 さて二人の関係だが、実は二人ともアーモスト大学の卒業生であった。その後クラークはマサチユーセッツ農科大学の学長に任じられるが、それ以前にアーモストでケミストリー(化学)を教えていた。その科目を1867年(慶應3年)9月に入学した新島が受講していたというわけである。クラークにとって新島は最初に教えた日本人であった。

 その後、新島は1871(明治4年)に駐米少弁務使の森有礼から、長州藩出身の内藤(堀)誠太郎がマサチユーセッツ農科大学に入学できるよう尽力してほしいと頼まれた。そこで新島は内藤を連れてクラークを訪問し、内藤の入学をお願いした。その甲斐あって、内藤は入学を許され、クラークの二番目の日本人生徒となった。

 それ以外にも、新島は田中不二麿や岩倉具視をクラークと合わせている。そういった縁で、新島は札幌農学校の教頭としてクラークを推薦した。当時農学校の学長だったクラークなので、そんなに長期間大学を休むわけにはいかない。そこで一年の休暇という形で日本にやってきた。それは明治9年(1876年)7月のことである。札幌農学校は明治9年8月14日創立だから、今年は同志社女子大学同様創立150周年になる。なおクラークは札幌農学校に赴任するに際して、二人の教員と内藤を通訳として同道させている。クラークがわずか八か月半という短期間であれだけの成果をあげられた背景には、この内藤の内助の功があったといえる。

 もし新島がクラークを推薦していなければ、「ボーイズビーアンビシャス」という名言は生まれなかったのだ。なおこの名言は、きちんと記録に残っていたわけではない。クラークの退職を見送る学生たちがそれを記憶し語り継いだことで、現在まで残っているのである。ただし学生の一人である安藤幾三郎は、「ボーイズビーアンビシャス、ライクディスオールドマン」と書きとどめている。「オールドマン」とは、もちろんクラーク自身のことである。

 明治10年(1877年)4月16日に札幌を後にしたクラークは、帰国の途中で5月9日に京都を訪れている。その目的は新島に会うことだった。同志社で新島に会ったクラークは、新島に向かって「マイボーイ」と叫んだといわれているが、確証はない。新島校長に対して「マイボーイ」と口にしたのだから、周りの生徒は驚いたことだろう。もちろんこのボーイは「教え子」のような意味だった。

 クラークは新島に案内されて同志社の構内を見学しているが、その際、各建物に少しずつ寄付をした。クラークにとって、日本人として最初に教えた新島の活躍は誇らしかったのだろう。ところで新島は明治8年に八重と結婚しているのだから、きっと八重もクラークに紹介したことだろう。一緒に食事したかもしれない。

 この日のことはクラーク自身、教え子の佐藤昌輔に宛てた5月14日付の手紙の中で、「私の最初の日本人学生の新島が創立したこの学校は65人の学生がおり、その多くが牧師(伝道師)になろうと志している」と書かれている。やはり同志社英学校はトレーニング・スクールだったのである。一方、新島はアーモスト大学のシーリー学長に宛てた手紙に、「アーモスト農科大学長クラークが先日来校しエンジョイしました。彼のキリスト教信仰に基づく働きを通して学生たちに大きな影響を及ぼしたことを、彼から聞いてほしい」(7月18日付)と書き送っている。  二人の交流はこれで終わりではない。クラークが亡くなる前年、新島は休暇として明治18年にアメリカに渡航しているが、その折にも新島はクラークと最後の面会を果たしていた。