#26 妻としての八重

人物

吉海直人(名誉教授)

1878年(明治11年)9月7日に新島新邸が完成した。そこには広い庭があり、新島はそこに畑を作って西洋の農作物を栽培している。イチゴ・梨・リンゴなどの果物を中心に、アスパラガスなど日本では手に入りそうもない珍しい野菜がいろいろ植えられていた。それらの種や苗は、友人の津田仙(学農社)に注文して届けられたものだった。

新島は武家育ちの八重にも鍬を握らせ、「あなたも一平民の細君となった以上、此くらひの事はしなければなりませんよ。会津藩の武士は、其後たいてい落武士となって南部(斗南藩)の方に走り、今では皆百姓をやってゐるではありませんか」(『新島襄片鱗集』334頁)と諭したそうだ。このあたりは新島がリードしている。八重にしても、会津か米沢で畑仕事をしていた可能性は高い。なお新島は武士だったが、ここで「平民」といっているのは、安中(当時は熊谷県)から京都へ本籍を移す際、身分を「士分」から「平民」に改めたからである。

 手作りのクッキーにまつわる楽しいエピソードもある。新島と教え子の金森通倫(みちとも)は共犯であった。

宅で御客さんを招待するといふ前日でしたが、私は生姜菓子(じんじゃぶれっど)を御客様に出す為にとて造つて置きました。どんな所へ仕まつて置いても菓子ならば、直ぐ探し出して食べて仕まふ襄の癖を知つてゐる私は、一寸(ちょっと)外へ用事があつて家を出る前に、今のジンジャブレッドを戸棚へ仕舞って錠を下ろして置きました。少時(しばらく)して私が帰つて見ると、金森さんと襄とは両人でくすくす笑つてゐる。何か容易ならぬ事があつたのに()まつてゐるとさとつた私は、早速戸棚の錠をたしかめて見た。安全である。もう用意は出来ました菓子はつくつたし。と私が言ふと襄は何喰はぬ顔して、菓子を灸いたつもりなの、と言ふ。私はあまりあやしいと思つたので錠を外づしてみました。すると驚くではありませんか。菓子は一つ残らず無くなつてゐるんです。二人はたうとう白状しました。合鍵はないし、開け様がなかつたので、両人で力まかせに錠を下ろした(まま)戸を一度外して、不意攻撃をやつたのでした。私はぶつぶつこぼしながらまた菓子を()かなければならぬのでした。(『追悼集Ⅱ』278頁)

八重がちょっと留守にした間に、きちんと鍵を掛けて戸棚にしまっておいた来客用のジンジャーブレッドが二人に食べられてしまったので、もう一度焼き直したという話である。八重の文章もなかなか達者である。ただこれだと新島は盗み食いの常習犯だったことを暴露したことになる。これが新島を信奉する弟子達の怒りを買ったのかもしれない。

その通倫が語った八重の逸話もある。

    綿入れを貰う

  私は熊本を追ひ出されてから、長崎で浴衣地を一枚二銭で買ひまして、都へ上ぼって参りました。幾ら何でも六月から秋にかけて十月頃迄も、破れ浴衣(ゆかた)一枚で居るものは私以外誰一人とて見つからなかった。祈祷会などには真にふるひながら祈ったのでした。けれど私自身としては冬は寒いものだと自覚してゐました。或る夜、祈祷会の帰るさ、そこに居らっしゃる未亡人は私の身なりに見兼ねて宅へ来いと言はれた。お菓子にでもありつくのかと寒風に(ふる)ひながら先生の宅をお訪ねしました。奥様はぶくぶくした大がさの着物を私に呉れるのでした。私は生れて始めて綿入れを見たのでした。有難く頂戴して帰るさ仙洞御所の前迄来て、肌をつんざくあまりの寒さに堪え兼ねて、貰った綿入れを浴衣の上に重ねたのでした。ぬくいといったら!成程綿入はぬくいものだと(はじ)めて知りました。(追悼集Ⅱ275頁)

綿入れのプレゼントは、新島校長夫人としての八重の心遣いであろう。これなど新島の私生活を知る上でも貴重な資料ではないだろうか。つまり八重を知ることは、必然的に私生活における新島を知ることにつながるのである。というより、家庭における新島については、八重以外に語れる人はいないはずだ。 なお自民党の石破茂元総理大臣は、この通倫の曾孫にあたる人である。