#25 八重と裏千家茶道

人物

吉海直人(名誉教授)

  同志社と裏千家茶道の関わりは深いものがある。そのきっかけは八重が築いたといえそうだ。八重が本格的に裏千家茶道を習ったのは、襄が亡くなって4年後の明治27年からである。かつて八重と裏千家の出会いは、明治5年4月に女紅場の権舎長兼教導試補に奉職した時まで遡るとされていた。というのも、同僚に茶道師範の千猶鹿子(ゆかこ)(真精院)がいたからである。1850年生まれの猶鹿子は、八重より5歳年少だったが、裏千家11世宗匠玄々斎の長女ということで、女紅場の教師に抜擢され、それが我が国の学校茶道の始まりとされている。

 ただし『近代女子教育の成立と女紅場』(あゆみ出版)では、茶道が女紅場の授業に導入されたのは明治11年のこととしていまる。それが本当ならば、八重と猶鹿子は女紅場では重ならなかったことになる。いずれにしてもそれから20年後、八重は改めて裏千家に入門している。幸い同志社社史資料センターには、八重の免状が12枚も保管されている。それを見ると、最初の「入門」と「小習十六ヶ条」は明治27年5月8日付けで、12世又玅斎(ゆうみょうさい)(猶鹿子の夫)の名前で出されている。翌年8月3日には、13世宗匠圓能斎(猶鹿子の子)から「茶通箱」(初級)と「唐物点」が授けられている。当時の圓能斎はまだ若く、八重にとっては子どものような存在だった。ただし東京へ出ていた圓能斎が京都へ帰ってきたのは明治29年とされているので、直接指導したのは猶鹿子かと思われる。

 明治29年以降、八重は圓能斎が居住していた荒神口にお稽古に通っていた。その頃は八重と粟田宗近女の2人しか弟子がいなかった。八重の上達は早く、明治31年6月12日には「真之行台子」(上級)が伝授されている。その御礼に八重は、掛軸34幅を圓能斎に寄贈しているが、その中の1幅は千利休自筆の軸とされている。もしそれが本物なら、かなり高価なものだったと思われる。さらに八重は明治43年7月4日に「宗竹」という茶名並びに名誉引次の木札を授与されている。こうしてお茶の師範となった八重は、明治44年頃には自邸(新島旧邸)の一室を造作卯して茶室を造り、月釜を立てるようになっている。その茶室は「寂中庵」と命名されるが、大正元年8月1日にその扁額を揮毫したのは圓能斎だった。

 ところで徳富蘇峰記念館に所蔵されている蘇峰宛て八重書簡を調べていたところ、明治44年10月11日付の書簡に気になる記述を見つけた。内容は蘇峰の父一敬の九十の賀の記念品を贈ってもらったことに対する返礼である。問題はその末尾の追伸にあった。
  尚々皆々様に山々宜敷(よろしく)仰上下され度(たく)願上奉候。
  尚御かげ様にてふしんに昨今着手致居、是又厚く御礼申上候 以上
 後半に「ふしん」とあるが、これを「普請」と見れば、ちょうどこの時期に茶室の造作に取りかかったと見ることができそうだ。具体的には十二畳の洋間の中に四畳半の茶室をはめこんだものである。蘇峰に対して「御かげ様」「厚く御礼申上」とあるのは、その普請の費用を蘇峰から出してもらっているからであろう。

 これに関連すると思われる資料も見つかった。早川喜代次著『徳富蘇峰』に、
  蘇峰翁より書留便がつくと、夫人は鋏で封を切りながら、感慨深げな面持ちで、「徳富さんは昔いくらもお世話をしませんのに、永い間私の子のように貴族院の歳費を私の生活費として送って呉れます。学者のお金ですから私には勿体ないです」と涙ながらに喜びの言葉を山岡夫妻に漏した。そして翁への礼状はいつも自分でていねいに書いていた。(478頁)
とある箇所である。ここに「貴族院の歳費」に注目してみたい。というのも、蘇峰が貴族院議員になったのは明治44年8月24日だからである。それ以降に「貴族院の歳費」が八重に送られたとすれば、書簡の日付と時間的に合致することになる。

 いずれにしても八重は家元とかなり近いところにいたこと、八重が女流茶人のはしりであり生徒たちにも教えていたことは間違いないのだから、茶道を同志社女子大学のお家芸としてアピールしてはどうだろうか。