#23 イザベラ・バードの証言

人物

吉海直人(名誉教授)

 まさに「灯台もと暗し」だった。同志社女子大学のホームぺージを開いて、宗教部だよりの中のチャペルアーカイブ「130年を語りつぐ」を見ると、そこに宮澤正典先生の「W.S.クラーク、イサベラ・バード、ヘルマン・ヘッセ」というコラムが出ている。恥ずかしながらそれを読んで、イギリスの女性探検家イザベラ・バードが、『日本紀行』の中で八重や同志社女学校について書いていることを初めて知った。さらに京都大学の金坂清則教授(「完訳日本奥地紀行」の訳注者)が、「同志社時報」119(2005年4月)に「イザベラ・バード─埋もれていた史上屈指の女性旅行家と同志社との関わり─」を掲載されていることもわかった。これを参考にして、あらためて『日本紀行』の記事を紹介したい。

 1878年(明治11年)9月16日、常磐井殿町(二条家跡)に女学校の校舎が新築され、そこで新学期が始められた。その直後の10月にイザベラ・バードが京都を訪れ、ギューリック夫人の斡旋で、二週間ほど女学校の二階に宿泊した。そのことは『完訳日本奥地紀行4』(平凡社)の「第52報キョウト・カレッジ[同志社英学校]」に詳細に報告されている。

 まず京都で二週間過ごしたことが、
「私は二週間前にここ[二条さん屋敷、同志社女学校]にギューリック夫人とやってきた。一人で〈宿屋〉で数日過ごすつもりにしていたのだが、着いてみるとここで世話になる手筈がすでに整っていた。そしてこれまでの二週間を、私の世話をしてくれる女性と大変多くの名所[挿絵]を見物したり、英語を話す野口氏とあちこちを訪ねながら楽しく過ごしてきた。」(77頁)と記されている。イザベラ・バードが京都で滞在したのは、完成したばかりの同志社女学校(NIJYOSAN YASHIKI)だったのだ。
 
 続いて、
「ここ[二条さん屋敷]は女子のためのアメリカン・ミッションスクール[同志社女学校]で、和様折衷のそのとても大きな建物には〈障子〉のかわりにガラス戸がはまり、〈雨戸〉はない。このため非常に冷える。」(79頁)とある。日本人の目に女学校は西洋風建築に見えるが、バードはガラスを用いた「和洋折衷」と述べている。

 なお「滞在先の夫人」について金坂氏は、
「ここで彼女の世話をした女性とは女学校の舎監をしていた山本佐久つまり山本覚馬・八重兄妹の母、すなわち新島襄の義母だった。『バード日本紀行』が充てる「おかみ」という訳語では、バードの旅は正しく理解できない─女将とは宿屋の女主人のことである。佐久なればこそ、バードを世話し、「大変多くの名所」に案内した。」と解説している。これによればバードは、佐久とも親しくしていたことになる。

 続いて当時の同志社女学校について、
「少女の定員は50人だが、今のところは18人に制限されている。教頭のスタークウェザー嬢しかいない上に、アメリカ人の助手も欠いたままになりそうなためである。学校では実務教育も行っている。スタークウェザー嬢は少女たちが日本の礼儀作法とよいしつけをきちんと身につけることにこの上なく気を配っている。」(79頁)と記している。ここでバードはスタークウェザーを「教頭」としている。この時期まだ教員や生徒数が少なく、二階に余裕があったので、バードが滞在できたのである。日本流の礼儀やしつけというのは、もちろんスタークウェザーではなく舎監であった佐久や八重が教えていたのだろう。

 「英語を話す野口氏」が誰のことかわからなかったが、会津藩出身でアーネスト・サトウの通訳を務めた野口富蔵のことだとようやくわかった。その頃は京都府に出仕しており、知事から英語力を買われてバードの通訳として派遣されていたのである。

 バードは、新島邸にも招かれている。
「昨日[10月29日]、門徒宗[浄土宗]という、仏教の一宗派で最も大きな影響力をもつ僧侶赤松[連城]とのとても楽しかった会談を終えた私は、夕刻、軽い食事に招かれていた新島夫妻の家を訪れた。和風のすてきな家だった。軽食はテーブルに用意されており、私たちは椅子に座った。テーブルの上にまことに美しくみごとな磁器がある点を除くと、外国家庭で出される食事や茶と何ら変わらなかった。」(85頁)

 ここでもバードは、新築の新島邸を「和風」としている。もちろん中は洋間であり、テーブルにお茶が載せられ、椅子にすわって軽食やお茶をいただいている。そしてバードは八重のことを、
「妻[八重]は女学校[同志社女学校]で裁縫を教えており、和服を着ている。」(86頁)と評している。これによってこの時八重が和装であったこと、女学校で裁縫を教えていたことがわかった。おそらく結婚当初の写真のような和服だったのだろう。襄の年譜(『新島襄全集8』)には何故かこのバードの記事が漏れているので、バードの証言は、明治11年の女学校ならびに八重の動向を知ることのできる貴重な資料だと思われる。