#22 同志社女子大学の姉妹校

歴史

吉海直人(名誉教授)

 同志社女子大学の始まりを調べていて、同志社女学校が同志社分校であったことに気が付いた。新島の視点で見ると、女学校は当初同志社分校女紅場という名称でスタートしていたからである。英学校に次ぐ同志社二つ目の学校という意味である。あるいは英学校が主で女紅場は附属という意味であろうか。それ以降、同志社にはいくつもの学校が併設されているが、女紅場以外に「分校」という名称は用いられていない。強いてもう一校加えるとすれば、京都看病婦学校があげられる。これは同志社が運営する同志社看病婦学校だったが、後に佐伯理一郎に払い下げられている。

 京都以外に目を向けると、かつて宮城県に同志社の分校が存在したという事実がある。明治19年に設立した宮城英学校は、翌年東華学校と名称を変更している。そしてこの学校の初代校長は新島であり、東華学校は同志社英学校と同じ精神なので、同志社分校と称してもおかしくないと述べている。それもあって「同志社仙台分校」と認識されている。もし新島が長生きしていれば、他にも同志社分校が各地にいくつか設立されていたかもしれない。ついでにいえば、日本女子大学では同志社英学校の卒業生(新島の教え子)がたくさん教師になっていた。その日本女子大学を訪れた新島八重は、夫の教えが継承されている学校と認識している。正式な分校ではないものの、日本女子大学は精神的には同志社の分校でもあったといえる。

 話はこれで終わらない。視点をデイヴィスに移すと、デイヴィスの尽力によって創立された学校があるからである。それは同志社女学校ができる以前の話である。実はデイヴィスは神戸に女学校を開校していた。それが現在の神戸女学院大学の前身である。そうなると神戸女学院大学は同志社女子大学の姉といってもおかしくなさそうだ。デイヴィスの視点からすると、神戸女学院大学と同志社女子大学は姉妹校だったのである。

  最後に山本覚馬視点で見渡してみると、京都にいくつもの学校が作られていることがわかる。たとえば京都府立医科大学がその一つである。この大学の前身は、京都府勧業課にいた明石博高が開いた療病院だからである。その明石を大阪から招いたのが覚馬であった。要するに明石は覚馬の設計図に従って、療病院を開いているのである。公私の区別を除外すると、覚馬の構想の中では同志社と京都府立医科大学は姉妹校といっても構わない位置付けだったのである。

 同様に京都薬科大学にしても、覚馬が作らせた独逸学校を前身としているので、これも同志社と姉妹校としてよさそうだ。ついでに現在の府立鴨沂高校の前身は、覚馬が作らせて八重を教師として働かせた女紅場であるから、これも公私の枠を超えた姉妹校と見ても構わないのではないだろうか。

 その他、覚馬は近代化する京都に必要な学校として、欧学舎・理化学学校・農牧学校・癩狂院(てんきょういん)駆黴院(くばいいん)盲唖院(もうあいん)などを次々に開校している。覚馬の構想としては、同志社もそういった学校の一つだったのではないだろうか。もしそうなら、覚馬が関与して創設された京都の学校は、すべて姉妹校としてもいいのではないだろうか。これは京都でしか具現できなかったことのように思えてならない。