歴史
吉海直人(名誉教授)
同志社関係者が「カタルパ」を語ると、どうしても新島と徳富蘇峰の師弟愛に収束されてしまう。特に蘇峰の開いた大江義塾跡地に「カタルパ」が植えられていることから、新島と蘇峰の絆の象徴とされることが多い。それが、
「カタルパの木は、明治十年代に同志社の創立者である新島襄がアメリカ土産として持ち帰った種を子弟に配り、その種から育った木が全国にあり、」とあるように、その種は蘇峰以外の弟子にも分けられ、全国に広がったと説明されている。要するに日本の「カタルパ」は、すべて新島から広まったとしているのである。しかしながら「カタルパ」には、新島経由以外の伝来ルートも確かにあった。この点が同志社関係者に欠けているのではないだろう。
「カタルパ」について調べてみると、日本最古の「カタルパ」は新宿御苑にあるものだとわかった。これは明治7年に植えられたという確かな記録が残っている。記録だけではなく、その時に植えられた古木が現在も残っている。残念なことに、数十年前に落雷を受けて幹の途中から折れてしまった。そのため本来の高さは想像するしかないが、それでも幹回りが440㎝もあるので、今のところ日本最古であるばかりか、日本最大の「カタルパ」と認定できる。もちろんこの「カタルパ」に新島との結びつきなど認められない。襄とは無縁の「カタルパ」もあることを認識していただきたい。
もう一つ別のルートも見つかった。これは新島とも親しい津田仙が、明治25年に「カタルパ」の苗を一本五銭から十銭で通信販売していたことである。津田の発行していた農業雑誌によれば、「オハヨ梓」という名称で販売していたとある。この「オハヨ」というのは、アメリカのオハイヨ州のことである。そういえば明治13年に襄にパンフレットと種子を送ったバーニー氏も、オハイヨ州在住の実業家だった。どうやらオハイヨ州は「カタルパ」の産地だったようだ。
この件には後日譚がある。というのも、蘇峰の弟である蘆花の『みみずのたはごと』の中に、次のような一文があったからである。
「父は津田仙さんの農業三事や農業雑誌の読者で、出京の節は学農社からユーカリ、アカシヤ、カタルパ、神樹などの苗を仕入れて帰り、其他種々の水瓜、甘蔗など標本的に試作した。」
なんと蘇峰の父(一敬)は、津田仙の学農社から「カタルパ」の苗を仕入れていたと書かれているではないか。ここで仕入れて育てた「カタルパ」は、新島との接点を持たないことになる。この津田仙の例のように、新島とは無関係のルートで「カタルパ」が日本に輸入されていたのだ。例えば『明治林業逸史』にも、「(明治)30年代、 カタルパを米国より林業試験場に輸入した」(230頁)とある。京都に限っても、京都大学農学部の農場や京都府立植物園にカタルパが植えられてることがわかっている。これは京都に限ったことではなく、全国の林業試験場や植物園・学校の演習林にも植えられていたに違いない。これだけで相当な本数になる。「カタルパ」は決して珍しい木ではなかったのだ。
従来は、何としても新島襄との関りを強調するために、つい「カタルパは新島襄がその種をはじめて日本に持ちこんだ大変珍しい木である」「熊本では数本しかない珍しい木である」「日本では非常に珍しい北米原産の落葉樹である」「アメリカ原産で全国的にも数が少なく、珍しい植物のひとつである」などと強調されてきた。しかし冷静に考えれば、「カタルパ」がさほど珍しい木ではないことがわかるはずである。要は「カタルパ」伝播の調査を怠っていただけなのだ。
おそらく校友会による熱心な「カタルパ」の植樹記事がネットに溢れているので、一般の人には同志社から全国に伝播したと勘違いされているのではないだろうか。同志社関係者における「カタルパ」神話はそれとして、日本中の「カタルパ」がすべて同志社由来ではないということも、きちんと認識していただきたい。