歴史
吉海直人(名誉教授)
栄光館の前に「カタルパ」が植えられていることはご存じだろう。何故そこに植えられているかというと、その木に新島と徳富蘇峰の師弟愛神話が託されているからである。この「カタルパ」神話を最初に指摘されたのは、同志社大学・末光力作氏の「新島襄先生と植物」新島研究72・1988年4月だった。
この末光論を踏まえて、同志社女子大学・秦芳江先生の「新島ゆかりのカタルパが咲いた」(新島研究93・2002年2月)が書かれている。その論の中で秦先生は、
「これまで、同志社内ではこの新島ゆかりのカタルパについては、なかば伝説的に語られるのみで、実物は熊本の徳富記念園に出かけなければ見ることができなかった。」と指摘しておられる。秦先生がこの論を書かれた時、同志社には「カタルパ」など植えられていなかったのだ。だからこそ秦先生は、徳富記念園から「カタルパ」の苗木を譲り受け、1991年に京田辺の新島記念講堂の前に植樹されたのである(栄光館前も秦先生の植樹)。これでわざわざ徳富記念園に行かなくても、同志社のキャンパスで「カタルパ」の花を見ることができるようになった。
念願の「カタルパ」の植樹について秦先生は、「このカタルパが同志社になくてはならないと考えられた最初の人、同志社大学工学部名誉教授、故末光力作氏(1995年没)の思いについて記したい。」と前置きされた上で、末光氏を高く評価しつつもやや批判的に紹介されている。特に末光氏がかつて同志社に植えられていたとされ、
「実はもっと身近な所にカタルパの木がある。同志社中学校彰栄館の南前庭に、シュロの木などと共に植えられている。アスファルトに囲まれた狭い土地なので、水分も少なく、昨今かなり弱っている様である。以前、一九六七(昭和四十二)年頃までカタルパの老木が植えられていたが、その木が枯れたので現在の二代目が植えられた。同志社中学校の校友会誌の名が「きささげ」というのはこの木に由来している。
さて、先代のカタルパは何時、誰が植えたのであろうか。或いは新島お手植えの木ではなかったであろうかと想像は膨らんでゆく。ともあれ、現存のカタルパを大切にして欲しいと同志社中学校関係者に訴えておこう。」と述べられている「カタルパ」について、秦先生は、
「私達が通常キササゲと呼んで、庭園や公園に植えられている木は、中国産の落葉樹で、おもに和風庭園の庭木で、種子が漢方薬として用いられ、樹形、花型ともにアメリカ種より小ぶりである。筆者の観察では、現在、同志社中学の彰栄館の前庭にある二代目の木ささげは、どうやら前者(中国産)らしい。したがって、1997年5月発行の『同志社大学広報』301号19頁のコラムにある”同志社内のカタルパ”として取り上げられている彰栄館前の木ささげ、およびE・E・バルニイを種苗商としているのは残念ながら間違いである。」
と、それが間違いであることを指摘しておられる。かつて彰栄館前に植えられていたのはアメリカ産の「カタルパ」(オオアメリカキササゲ)ではなく、中国原産の「きささげ」だったというのである。ここに「老木」とあるが、これがもし「カタルパ」なら、かなりの巨木になっているはずだからである。そうでないのは、それが日本古来の「きささげ」だったからであろう。合わせて中学校の校友会誌名が「カタルパ」ではなく「きささげ」となっているのも、そのことを明示しているのではないだろうか。
秦先生の説が正しければ、新島記念講堂に「カタルパ」が植えられる以前、同志社に「カタルパ」は一本も植えられていなかったことになる。ということで、同志社に初めて「カタルパ」を植えたのは秦先生ということになりそうだ。いずれにしても「カタルパ」神話は、末光氏の論に端を発し、秦先生がそれに呼応したことが契機となっている。それがいつしか「カタルパ」神話として醸成され、さらに近時は校友会の積極的な植樹によって「同志社ゆかりの木」「新島ゆかりの木」として全国的な広がりを見せるにいたっている。まさに「カタルパ」神話が醸成されたのである。