吉海直人(名誉教授)
日本が幕末を迎え、安政五年(1858年)に日米修好通商条約が締結されると、諸外国のキリスト教宣教師が競い合うように来日している。彼らは外国人に開港された函館・横浜・新潟・神戸・長崎を拠点にして、積極的にキリスト教布教活動を行った。
アメリカのプロテスタント各派は、翌1859年以降、宣教師を日本に派遣し、日本での布教を開始した。アメリカ聖公会からはリギンズとウィリアムズ、シュミットがアメリカ長老教会からはヘボン夫妻が、アメリカオランダ改革派教会からはブラウン夫妻、シモンズ夫妻、フルベッキ夫妻が、アメリカ北部バプテスト教会からはゴーブルがそれぞれ派遣されている。
それに対してアメリカン・ボードは日本伝道に大きく出遅れた。グリーンが派遣されたのは十年後の明治二年(1869年)であった。その時には既に横浜には多宗派の宣教師が集中していたので、宣教師の手薄な神戸を拠点として宣教を開始した。普通ならば十年の遅れは取り返しのつかないものだが、その時点で日本はまだキリスト教禁止令が存続していた。だから先発隊の伝道は困難を極めていたのである。そこで諸外国はそれに対して強く抗議した結果、明治六年にキリスト教禁止の高札が撤廃され、ようやく伝道が自由に行われるようになった。
その意味でアメリカン・ボードは、一番いいタイミングで宣教を開始したともいえる。もちろん禁止令が解けたといっても、日本には依然としてキリスト教に対する不審が蔓延していた。そのために行われたのが医療を通じたキリスト教の普及活動であった。そしてもう一つの戦略が、英語教育を看板に掲げた伝道であった。具体的には英語の聖書をテキストにして、英語を教えながらキリスト教を同時に教えるというやり方である。
神戸を拠点にしたアメリカン・ボードは、明治四年にはグリーンに続きギューリック、デイヴィス夫妻が派遣され、日本におけるミッションが開始された。神戸近郊の宇治野村で早速英語学校が開設され、それに続いて女子塾が開かれた。英学校の校長(責任者)はデイヴィスであり、女子塾は「女性の伝道は女性が行う」という方針から、新たに来日した女性宣教師のタルカットとダッドレーが担当した。ここで開設された英語学校は長続きしなかった。というのもアメリカン・ボードの方針は学校設立ではなく伝道が主だったからである。それに対して女子塾は、明治八年に女学校(神戸女学院の前身)として開設され、現在に至っている。校長はタルカットで舎監がダッドレーであった。
それに対して新島襄は、日本にキリスト教の学校を作りたいと訴えて帰国したので、トレーニング・スクール(伝道者養成学校)を設立することに迷いはなかった。他の宣教師が反対する中、デイヴィスは新島に賛同し、一緒に学校設立をめざすことになる。最初の候補地であった大阪は知事の反対にあって挫折したが、山本覚馬にターゲットを絞っていたグリーンに導かれるように、新島と覚馬が出会ったことで、開港地・居留地から離れた内陸の、しかも長らく日本の首都であった京都に学校を建てることになった。
ただ宣教師側からすれば、外国人が居住し財産を持つためには日本人に雇用されなければならなかった。あくまで書類上のことではあるが、宣教師たちは自分たちより格下の新島に雇用されるという形式をとらなければならなかった。また京都という土壌は、仏教・神道の影響が強く、キリスト教に対する嫌悪や排斥も激しかった。特に儒教思想は、キリスト教の学校に対して冷淡だった。同志社は地元の支持を得られないままでの船出であったのだ。当然開校当初、生徒の確保は困難を極めていた。そこに熊本バンドの生徒が大挙してやってきたことで、英学校は一気に活性化した。
女学校にはウーマンズ・ボードからスタークウェザーが派遣されたが、二人目の女性宣教師雇い入れは許可されなかった。神戸女学院ではタルカット校長とダッドレー舎監の二人体制で運営がうまく回ったのであるが、独りで京都ホームを運営することは困難だった。やむをえず舎監を山本佐久(覚馬・八重の母)にしたが、佐久はクリスチャンではあったものの、アメリカの教育を知らなかったので、むしろ学校と切り離した家庭的に生徒に接した。それがスタークウェザーとの教育方針の違いとなったのである。必ずしも佐久が足を引っ張ったのではなく、女性宣教師の人手不足が最大の要因であった。
そこでやむをえず同志社英学校の卒業生を教員として雇い入れることになり、それによって英学校と女学校の距離は近くなった。当初、英学校の教育は男性宣教師が担い、女学校の教育は女性宣教師及び宣教師夫人に委ねられていた。同じくキリスト教の学校ではあるが、教育する人も内容もまったく異なっていた。現在の同志社大学と女子大学の関係は、必ずしも設立当初から密接だったわけではなかったのである。