歴史
吉海直人(名誉教授)
初期同志社の創立について縷々述べてきましたが、これで同志社の礎が完成したわけではありません。学校の評価は創立者や教師によって決まるのではなく、そこで学んだ生徒たちの卒業後の活躍が何より求められるからです。その点からすると、同志社の船出は必ずしも順風満帆ではありませんでした。宣教師の雇い入れは難航していたし、何より入学生の確保に苦労していたからです。そんなに簡単に新設されたばかりの学校に優秀な学生が集まるわけはないですよね。
ところがその時、天の配剤ともいうべき事態が生じました。それはたまたま熊本洋学校が廃校となり、そこで学んでいた30名に余る学生が大挙して同志社英学校へ入学してきたのです。それは同志社英学校が創立されたわずか一年後の明治9年の秋のことでした。この学生たちのことは「熊本バンド」と呼ばれています。というのも、彼らは熊本においてジェーンズから既に4年間、みっちり教育を受けていたからです。熊本は近代国家の建設に役立つ人材の育成のため、いち早く熊本洋学校を設立しました。その教師として、宣教師フルベッキから推薦されたのが宣教師ならぬジェーンズ大尉でした。
彼はたった一人で20科目ほどを英語で教えています。当初は学校でキリスト教を教えることはありませんでしたが、3年後には自宅で聖書研究会を開きました。そこで多数の入信者が誕生しています。そして明治9年には花岡山で生徒たちが奉教趣意書に誓約し、キリスト教に命を捧げる熊本バンドが結成されました。そのためジェーンズは解雇され、洋学校も廃校になりました。その彼らが京都の英学校にそっくりやってきたのです。
洋学校の1期生は、500人もの応募者の中から45人が選抜されました。彼らは全寮制の宿舎で、厳しい規律を守った集団生活を送っています。だから同志社に移っても、戸惑うことなどありません。しかも当時の日本の伝統的な教育方法である注入主義とは異なり、ジェーンズは開発主義という自学・自習を主とする教授方法で教育を授けていました。彼らが同志社英学校に入学した際、既に高いレベルの学力を有しており、人格も磨きあげられていました。
彼らは消極的な在学生とは違って、授業では新島やデイヴィスを質問攻めにしました。それに閉口しながらも、新島は内心彼らを頼もしく思っていたことでしょう。要するに熊本洋学校は、同志社英学校の教育の理想を具現していたのです。考えてみれば、熊本英学校は同志社英学校より早く明治4年に創立されているし、熊本バンドのメンバーは大半がクリスチャンになっていました。それが大挙して押しかけてきたのですから、最初から英学校に入学して学んでいた生徒達などすっかり影が薄くなってしまいました。彼らの入学によって、同志社英学校そのものが変容したといっても過言ではありません。
新島にしてみれば、思いがけず同志がやってきた気分でした。まさしくジェーンズ様様ですね。そのうちの15人が明治12年6月に英学校を卒業(第一期卒業生)し、期待通り牧師あるいは母校の教師、あるいはアメリカ留学など、新島の分身として活躍することになります。新島一人での布教には限界がありましたが、卒業生の多くがそれに加われば、教会の数も信者の数も一気に倍増します。もしこの時、英学校に熊本バンドが合流しなかったら、現在のような同志社の繁栄は望むべくもなかったことでしょう。
というより英学校の第一回英学校の卒業生は、すべて熊本バンドのメンバーでした。ということは、必ずしも新島が手塩にかけて育て上げた生徒ではなかったともいえます。一期生の浮田和民など、新島ではなくラーネッドから多大の影響を受けたと回想しています。
新島は卒業生に対して“Go, go, go in peace. Be strong ! Mysterious hand will guide you.”と励ましの言葉を贈りました。不破唯次郎・金森通倫・海老名弾正・横井時雄など、多くの卒業生が牧師として巣立っています。森田久萬人・蔵原惟郭はアメリカに留学しました。また山崎為徳・市原盛宏は英学校の教師、宮川経輝・加藤勇次郎は女学校の教師となって学校運営を助けています。女学校もこの二人によって活性化しました。
そしてこれを機に、新島は学校経営を教え子たちに任せ、自らは大学設立のための募金活動に邁進していきます。その際、もっとも頼ったのが徳富蘇峰でした。蘇峰は英学校を中退していましたが、新島はその蘇峰に協力を求めているのです。蘇峰もまた新島に真摯に応えています。こう考えると、同志社の屋台骨を支えていたのは熊本バンドの卒業生たちですよね。新島亡き後、同志社英学校を運営してきた熊本バンドの活躍は、同志社の歴史として、もっと高く評価されてしかるべきでしょう。