#8 『新島襄全集8年譜編』から見た山本覚馬

人物

吉海直人(名誉教授)

 『新島全集』は参考書として大変よくできています。大抵の資料が活用・掲載されているからです。試みに年譜編に出ている山本覚馬をピックアップすると、明治8年4月上旬(日付不明)に、「槙村の紹介で山本覚馬に会い、学校設立について相談する」(143頁)とありました。これより前の4月5日条に、「知事(槙村正直)に度々面会、学問をすすめることについて相談、京都府博物館用掛に就任を依頼される」(142頁)とありました。おそらく木戸孝允から槇村を紹介されたのでしょう。そしてその槇村から覚馬を紹介されたと読めそうです。

 なお4月上旬の条は、「山本はゴードンから贈られた『天道溯原』について話し、キリスト教による人心の改善を説き、キリスト教による学校の設立を勧める」(143頁)と続いています。新島が山本を説得したのではなく、既に山本はゴードンと接触しており、『天道溯原』を読んでいたことで、新島にキリスト教の学校を作ってほしいと勧めたようです。

 6月7日条には、「京師に於て学校建築之義相計候処豈料らんや何之差違ひもなく京師中指屈之人物相談に及ひ呉れ、忽々六千坪程の土地を買受べき談判に相成り当秋より学校造営に相懸かるべき企てになる」(144頁)と朗報が告げられています。「指屈之人物」はもちろん覚馬のことです。京都でキリスト教の学校を作るのは困難だろうと危惧していたところ、覚馬の計らいですんなり通ったというのです。

 翌8日条で、新島は安中にいる父民治に宛てて、「京都に六千坪の土地を買い学校を設立することになったので、忙しくて、この夏は安中に帰れないこと、また学校設立にあたり、寄留人では不都合と考えられるので、戸籍を京都に移したく、この旨を区長に依頼してほしい」と手紙で頼んでいます。新島は学校設立のために、安中から京都に戸籍を移すことになりました。翌10日には、「デイヴィスと共に再び京都を訪れ、学校用地として京都御所北側にある旧薩摩藩邸跡(開拓社名義、山本覚馬所有地)五エーカーの土地を五百五十ドルで買い受けています。

 6月30日の民治宛の手紙には、「戸籍については「寄留に而は不都合の事も有之候間、是非に住所を変へ士族より平民に相成候共不苦」「私義京師之人別に入候様支度候、扨当分之内京(上京)三十一区四百一番地山本覚馬と(申)者の内に同居」しているので、送籍状をそこへ送るように頼」んでいます。新島は覚馬方に4月5日以降寄留していたのです。

 7月7日条には重要な情報が掲載されていました。それはアメリカのハーディ氏宛の書簡に、「京都の学校を設立するにつき(槙村)副知事が学校の設立を許可したこと、校地を入手したこと、校舎にする建物について交渉中であること」が告げられています。槙村は私塾開業願が提出される前に、既に新島に内諾を与えていたのです。そして8月4日に私塾開業願が書かれました。届出人は新島と覚馬の連名です。二人は同志社を結社したのです。それがいつかはわかりませんが、書類上は8月4日もしくは提出された8月23日のどちらかでしょう。これをもって同志社の創立記念日にすることもできます。

 私塾開業願と同時に、外国人教師雇入願も二人連署で提出されました。学校はともかく宣教師を雇い入れることは文部省の布達に抵触するので、さすがに槙村も判断を保留し、文部省の許可を得るように新島に勧めます。学校の設立よりもこちらの方がやっかいだったのです。そのため新島は人力車を雇って東京に行き、文部省と折衝しました。9月1日条には、「文部省の官員に面会し縷々相談仕候処、何れ宣教師雇入西京に於而学校を開候事は可相叶」との感触をえました。そして9月3日、田文部大輔中不二麿が署名捺印してついに許可がおりました。書面には「西京伝教師を私学校教師に相雇候儀事実無余儀相聞候に付許可相成不苦候事」とありました。こうしてデイヴィスは、宣教師として初めて教師としての雇い入れを文部省から許可されたのです。これは文部大輔田中の大英断だといえます。

 こうして同志社英学校は11月29日に祈りをもって開校しますが、その折に作成された「同志社仮規則」にしても、新島と覚馬の連名でした。同志社という結社は間違いなく二人の結社人によって運営されているのです。ここにデイヴィスを加えたいところですが、当時は外国人は不動産を所有することも学校の校長になることもできませんでした。