歴史
吉海直人(名誉教授)
みなさんは「明治18年事件」をご存じだろうか。これは同志社女子大学最大の危機ともいえるものである。それは女学校の主導権が宣教師にあるのか日本にあるのかという問題でもあった。ことの発端は日本ミッションの第13回大会(1885年6月、神戸ジェンクス宅で開催)において、以下の案件が議決されたことにある。
京都の女学校は特有の状況ゆえに創設以来ほとんど絶え間ない批判―長年に渡っての手痛い経験が、これ以上教師の側でどんなに献身しても乗り越えることはできない事を示すほどの批判―にさらされてきた。かくて「日本ミッションは教師の引き上げを認め、学校を一時閉鎖することについて京都ステーションに同志社と調停することを認可する」(日本ミッション大会議事録)ここに教師の引き上げと学校の閉鎖が明記されている。同志社女学校側として、これは一方的な通達であった。そのことは『同志社九十年小史』の中に、「突如として」宣教師団が「短気にも」起こした事件と位置づけられている。また新島第二回外遊中に、「創立後日なお浅い女学校を見舞った最初・最大の危機」であったと記述されている。もっともこの火種は、女学校創設当時からくすぶり続けていた。
京都ホーム(宣教師の認識)側では、最初から「二人のヘッド」問題および「山本佐久・新島八重対スタークウェザーの確執」問題としてとらえていたからである。「二人のヘッド」というのは、校長は新島かスタークウェザーかである。書類上は新島だが、アメリカン・ボードにしてみれば、・ボードの資金と人材によって設立・運営されているので、スタークウェザーが校長(ヘッド)だと認識している。彼女自身も京都ホームを「スタークウェザーの学校」と認識していた。「山本佐久・新島八重対スタークウェザーの確執」というのは、八重の母である佐久が、寄宿舎の生徒たちの面倒を見ていたことによる。スタークウェザーは極東の未開の国日本の女性を教育するために、はるばる志を抱いて海を渡って来日した。しかし日本は決して未開の国ではなかったし、戊辰戦争で死線を超えた佐久と八重は、若い宣教師のいうことだからといって盲従するようなやわな女性ではなかった。
スタークウェザーにとっての寄宿生活は、授業以外の「生活を通してのキリスト教の感化」の場であったが、それが佐久には通じなかった。むしろ寄宿舎内のできごとは極力女性宣教師に知らせないようにしていた。その点についてスタークウェザーは、「私たちは(スタークウェザーとパーミリーをさす)うんざりする反対と苦痛に耐えてきたが、その原因はミセス新島とその母による不文律にある。この屋根の下ではあらゆる事が、外人宣教師の目から隠すように計られている」(ABCFMマイクロフィルム第8巻235号)とアメリカン・ボードのクラークに訴えている。英学校のラーネッドもクラーク宛書簡「女学校問題報告書」で、八重のことを「京都ホームでは役に立たないばかりでなく、彼女の影響力が女教師に対して不利に作用し、不平分子を煽り立てる結果になっている」と報告している。
そういった確執が数年続いていたのである。この問題について新島は、
「予に於て百方手を尽したれども事成らず、空しく手を引き自滅の途を取らしむるのみ」(『新島全集1』1882年12月27日同志社記事)
と打つ手がなかった。幸いこの事件は、なんとか新学期からの開校に漕ぎつけて事なきを得た。ただし佐久は舎監を辞任し、八重も女学校で教えなくなっている。これは女学校の経営をアメリカン・ボード主体にするか、日本人の主権を認めるかの争いであった。しかしながら資金も教師の手配もアメリカン・ボードに委ねているこの時期、女性宣教師不在で女学校が運営されることなど不可能だった。そのため外遊から帰国した新島は、女性宣教師に校長のポストを与え、主導権を認めている。
〈参考〉
ところで丸7年を京都で過ごしたスタークウェザーは、病のために本国で静養することとなり、明治16年(1883年)5月5日に帰国している。その後の彼女の消息は不明だったが、近年になって1921年(大正10年)10月4日にカリフォルニア州サンディエゴで亡くなり(享年71)、マウント・ホープ霊園に埋葬されていることが判明した(八木谷涼子氏の調査による)。スタークウェザーの回想は残されていないのだろうか。