#14 女学校における八重先生

人物

吉海直人(名誉教授)

 八重は女紅場で4年間働いた経験があった。しかも新島と結婚したことで宣教師夫人という立場になったことで、1876年(明治9年)2月にドーン夫人と私塾を始めている。生徒はわずか三人(一人は男の子)で長続きしなかったが、八重はこれを「同志社女学校の基(はじめ)」(「女学校期報」24)と述べている。その後、10月24日にデイヴィス邸(旧柳原前光邸)で女子塾(京都ホーム)が開かれた際も、八重は女性宣教師のスタークウェザーと協力して教育・経営にあたっている。なお八重は来日したばかりのスタークウェザーの日本語の教師も引き受けている。

 そして明治10年4月28日、女子塾から発展した同志社分校女紅場が開校した。ここでも日本人教師としての八重の存在は大きかった。その女紅場は、教える科目が女紅場にふさわしくないということで、その年の9月には同志社女学校になっている。その後、御苑整備事業の一環で、柳原邸(今の迎賓館の一部)が取り壊されることになったため、急遽常盤井殿町の二条関白家を購入し、明治11年9月に新築の校舎に移転している。わずか2年間とはいえ、御苑内の旧柳原前光邸は、創立150年を迎える同志社女子大学にとって、大切な聖地(発祥の地)だといえる。日本中探しても御苑の中の学校などありえないからである。

 ところで八重に学歴はない(小学校もなかった)が、それでも公立の女紅場で教えた経験があったので、英語のスペリングや会津仕込みの小笠原流の礼法を教えている。そのことは『同志社百年史資料編二』の末尾資料(英文)に、
Mrs.Neesima, also, joined Miss Starkweather as a teacher in this school.
と見えている。八重についての記事は、「同志社視察之記第六回明治十二年十一月廿八日」の女学校記事に、「教員加藤某其他社長新島襄ノ妻并に校中取締女ナル襄ノ外姑アリテ(『同志社百年史資料編一』)」とある。「校中取締女」というのは山本佐久(八重の母)のことである。また「同志社視察之記第十四回明治十三年十月廿八日」には、「洋琴を弾ス新島襄ノ妻ナリ。(同)」とある。「洋琴」はピアノのことである。八重はピアノが弾けたのだろう。さらに「同志社視察之記第廿二回明治十四年六月二十一日」の女学校記事にも、「第三時ヨリ女礼ヲ試ム。教師ハ同志社長新島襄ノ妻某ナリ。教則ハ吾小笠原古礼ヲ増減シテ教ヘタル者ノ如シ。(同)」と出ており、女礼を教えているので、少なくとも明治14年まで八重が女学校で教えていたことは間違いない。

 また「同志社校友同窓会報」六一にも八重のことが、「女学校開校後は同所にて、スペリングを教授されたり。同校が現在の場所に移りてよりは久しく小笠原流の作法を教授せらる」と書かれている。「スペリング」とはアルファベットの綴り方だろうか。「小笠原流の作法」というのは八重が得意とする小笠原流礼法のことである。こうしてみると、正式に女学校の教員として任命されてはいないが、八重が私塾→女子塾→女紅場→女学校という同志社女子大学創設期のすべてに関与していたことは明らかであった。

 これまでの同志社の歴史において、八重は新島の妻としてのみ位置付けられてきた。確かに英学校で教えたことはないので、八重の活躍など皆無に等しかった。それどころか、新島を敬愛する英学校の学生たちからは悪妻として非難されてきた。だからこそ排斥されたのである。それに対して女子大学の始まりでは、創立期の重要人物の一人として浮上する。八重の取り扱いは、同志社大学と同志社女子大学では大きく異なっていること、おわかりいただけたであろうか。