#16 「鵺(ぬえ)」と呼ばれた八重

人物

吉海直人(名誉教授)

 八重の逸話の中で必ず紹介されるのが、「鵺(ぬえ)」というあだ名で呼ばれたことである。誰に付けられたかというと、どうやら徳富蘇峰だったらしい。当時まだ学生だった若き蘇峰は八重のことを、「今から考ふれば、如何にも子供らしき事であるが、新島襄先生夫人の風采が、日本ともつかず、西洋ともつがず、いはゆる鵺のごとき形をなしてをり、且つ我々が敬愛してゐる先生に対して、我々の眼前に於て、余りになれなれしきことをして、これも亦癪(しゃく)にさはった」(『蘇峰自伝』85頁)と回想している。ただしよく読むと、決して顔が悪いと言っているわけではなかった。蘇峰が敬愛する新島に対して、八重があまりにも馴れ馴れしい態度で接するのが気に入らなかったことで、八重の和洋折衷の衣装の取り合わせを攻撃(揶揄)しているのである。

 九州男児の蘇峰は、新島先生の奥さんとして八重は相応しくないと思っていたのだろう。弟の蘆花はそれをさらに脚色して次のように酷評している。「会津から京都に帰り咲きした協志社々長の夫人は、黒からぬ髪を真中から二つに分け、眼尻の下つたてらてらと光る赤い大きな顔と相撲取りの様に肥えた體(からだ)を、稀(たま)には荒神口の赤坊室に見せていた。敬二は其の姪に肖(に)た下り目をもつ此寿代さんの叔母さんを、十一の時から見知った。髪を只中から二つに分けて西洋婦人の様に大きな飾付の夏帽をかぶり、和服に靴をはいて、帯の上に時計の鎖を見せた折衷姿を、創業時代の協志社生徒は鵺、鵺と呼んで居た。偉い人の妻に評判の好いのは滅多にない。飯島夫人の評判は学生間には甚(はなはだ)よくなかった。一廉(ひとかど)の内助のつもりで迎へた婦人が思ひの外で、飯島先生の結婚は生涯の失望である、と云ふ事が誰言ふとなく伝へられた。夫人がお洒落で、異(かは)つた浴衣ばかり一夏に二十枚も作つたの、大きな體に漲(みなぎ)る血の狂ひを抑へかねてのっぺりした養子の前を湯上りの一糸をかけぬ赤裸で通ったのと云ふ様な如何(いかが)はしい噂は、敬二の耳に入つて居た。敬二も何時となく夫人に敬意を失ふた。佳人之奇遇を見る毎に、敬二は「烈婦」の後半生をIronyと思はずには居られなかった。」(『黒い眼と茶色の目』187頁)

 「飯島先生」とはもちろん新島襄のことである。それにしても「生涯の失望」といい「一糸をかけぬ赤裸」といい、悪意の籠った文章ではないだろうか。恋仲だった覚馬の二女久栄との交際を八重に反対されたので、それを恨みに思っていたのかもしれない。ここに「創業時代の協志社生徒は鵺、鵺と呼んで居た」とある点、「鵺」が八重のあだ名にとして流通していたことになる。おそらく「やえ」と「ぬえ」には言語遊戯が成り立っていたのであろう。

 もちろんその程度の悪口でへこたれるような八重ではなかった。そのことも蘇峰自身、「夫人も亦九州の端っくれから出た小倅が、随分勝手な口をきくとて、心の中では怒られたでもあろうが、別段予に対して悪びれたる態度も示されなかった。これも流石(さすが)に会津の生んだ女性であると言はねばならぬ」(『我が交友録』305頁)と感心している。新島が亡くなった後、蘇峰はただちに八重と和解しており、その反省の弁として、敵ながらあっぱれだったと述べているのである。

 この蘇峰とは別の見方もあった。教え子の一人である湯浅一郎(洋画家)は、「新島夫人が、立派な洋装に靴を履いて、時計をかけ指輪を嵌(は)めて、恰度(ちょうど)今日の貴婦人の様子をして居たが、当時は非常に突飛な風であった。然し先生と立ち並んで、立派な風采の夫婦だと思った」(『創設期の同志社』99頁)とプラスに証言している。ただしここでは和洋折衷ではなく、完全に「洋装」になっている。さらに八重は、夫を「ジョー」と呼び捨てにした。これは八重の意志ではなく、アメリカ式の家庭を理想とする新島からそう呼んでほしいといわれたのだが、周囲の人(特に同志社の学生達)は夫を尻に敷いていると受け取ったのだろう。