人物
吉海直人(名誉教授)
同志社では古くから「七五三太」は新島の「幼名」として語り継がれてきた。みなさんもそう思ってはいないだろうか。その気持ちもわからないではないが、「七五三太」幼名説を覆す資料がちゃんと存しているのだから、この機会に幼名説は一掃していただきたい。
その証拠というのは、新島が森有礼に作ってもらった旅券(パスポート)に新島七五三太と書かれていることである。まさか国の公的文書である旅券に幼名を書くはずはあるまい。また岩倉使節団の通訳を務めた書類にも新島七五三太と書かれている。これらが幼名説を否定する有力な資料である。要するに新島は、幼名「七五三太」から成人して「襄」に名前をかえたのではなく、本名はずっと「七五三太」だったのである。ただアメリカで洗礼を受けたこともあって、帰国後にクリスチャンネームの「ジョセフ」に因んで「襄」に改名したというのが真相であった。
明治8年4月に博物館用掛に任命された辞令に新島襄とあるので、この時既に襄を名乗ったようだ。そして同志社英学校設立のため、戸籍を安中から京都に移した際、身分を士族から平民に変更しただけでなく、「七五三太」を「襄」に改名したのではないだろうか。なお「襄」のルビとしては、日本的な「じょう」より西洋的な「ジョー」の方がよさそうだ。
これによって幼名説は払拭されるはずなのだが、今でも大半の人は新島の「幼名は七五三太」としてまことしやかに語り続けられている。例えば同志社一貫教育委員会がネットに掲載している「新島襄の生涯」には現在でも、新島襄は天保十四年(1843年)二月十二日(旧暦一月十四日)、江戸の神田にあった安中藩江戸屋敷に生まれました。四人姉妹に続く長男だったので、家族は跡取り息子として大変喜びました。幼名は七五三太で、その由来には二つの説があります。一つは一月十四日が正月の松の内の期間内で家にしめ縄が飾られていたので七五三太と名づけられたというもの。もう一つは『祖父弁治が喜びのあまり「しめた」と叫んだことから名づけられたというものです』と説明されている。それだけでなく、身近な同志社クイズの中にも、『家族の一人が喜びのあまり「しめた!」と叫んだ。これが新島の幼名七五三(しめ)太(た)の由来と言われている』と紹介されているし、同志社女子大学の「2018年12月 今月のことば」にも、『新島襄の幼名は「七五三太(しめた)」と言います』と書かれているではないか。
しかも幼名説は同志社のみならず、関連する新島学園や安中教会のホームページ、さらには錦三・七五三太公園の案内板にまで飛び火しており、「幼名は七五三太」がまかり通っている。話としては面白いので、過去の記憶・過去の常識がなかなか払拭できないのである。というより同志社でさえ是正できないのだから、現在も幼名だと信じている人がたくさんいてもおかしくあるまい。
150周年を迎えるに当たって、幼名説がきちんと是正されることを願ってやまない。なおウィキペディアを見ると、「出生名は七五三太(しめた)」とあって、「出生名」とされている。これは襄と変更される前の本名というニュアンスなのであろう。なかなかうまい説明である。