#10 同志社はただの私立学校ではなかった

歴史

吉海直人(名誉教授)

 現在の同志社大学及び同志社女子大学は、いわゆるキリスト教主義の普通の私立大学として運営されている。しかしながら開学当初は決して普通の学校ではなかった。そもそもアメリカン・ボードやウーマンズ・ボードが、普通の英語学校にわざわざ献金・教師(宣教師)派遣などするはずはあるまい。キリスト教伝道者を養成する学校だからこその援助なのである。その点を看過してはならない。

 同志社英学校は、キリスト教のトレーニング・スクールであってこそ、資金援助・教師(宣教師)派遣が受けられたのである。同様に女子塾や同志社女紅場にしても、京都ホームであってこそ資金援助・宣教師派遣が受けられたのだ。当然、アメリカの宣教師たちは資金も教員も提供しているのだから、同志社の学校はボードが運営する学校と認識していた。しかしながら当時の日本において、キリスト教伝道者を養成する学校では、開校の許可が得られるはずはなかった(キリシタン禁制が解禁されたばかりである)。京都府としては単に英語と西洋文化を伝授してくれればそれでよかった。だから教室で聖書を教えることは禁じられたのである。

 それに対して新島は、表向き聖書を教えないことを約束して申請し、西洋の学問を英語で伝授する高等教育機関という建前で開校に漕ぎつけようとした。もちろん宣教師たちはそれに反対したのだが、唯一デイヴィスだけは新島の意見に賛成した。というのも、彼はこれより前に神戸で英学校を開校した経験があったからである。しかしその英学校は長続きしなかったという苦い経験があった。だからデイヴィスは、新島と組んで二度と失敗しないように努めたのである。二人にとって大事なことは、一つには何としても開業の許可を得ること、そしてもう一つはいかに学校を存続させるかであった。そのためには日本に合ったやり方をとるのが一番である。もちろん不満はいくらでもあったものの、デイヴィスは新島と組んで英学校を開校するために、忍従を受け入れた。こうして開校した英学校であるが、そこでは英語が教授されるという以上に、牧師になるための訓練が密かに伝授されていた。まさに内実はトレーニング・スクールだったのである。だからこそ初期の卒業生の大半は牧師になっており、その実績はアメリカン・ボードに資金を援助してもらうのに十分なものであった。

 それに対して女学校の運営は、新島もデイヴィスもウーマンズ・ボードから派遣された若き女性宣教師スタークウェザーに丸投げ状態であった。彼女は女学校を自分の思うとおりに運営しようとした。それは自分たちが学んだアメリカの女学校をそのまま日本で再現することであった。ところが英学校とは違って協力者がいなかった。むしろ女学校には、彼女の方針に従わない頑固な日本人がいた。それが山本覚馬の母佐久であり、新島襄の妻八重である。佐久は女学校の宿舎の舎監であり、八重は女学校の教師である。特に舎監の佐久はかなり大きな影響力を有していた。佐久も八重もクリスチャンではあったものの、彼女たちは日本方式(会津方式)で女子生徒たちに接したため、スタークウェザーの理想的なキリスト教教育とは相いれなかったのである。

 それによってアメリカのホーム(マウント・ホリヨーク・セミナリー)をそのまま京都に再現する(京都ホーム)という目論見は叶わなかった。挫折を味わったスタークウェザーは精神的にも病んでしまい、女学校の教師をやめてアメリカに帰国してしまう。他の女性宣教師たちもこの軋轢の中で苦悩し、遂に宣教師たちによるボイコット事件、いわゆる明治18年事件が勃発してしまう。ちょうど新島は外遊していなかった時であった。女学校にはデイヴィスのような忍従する女性宣教師、緩和剤的な人物が不在だったようである。最終的に女学校は佐久と八重を排除すること、女学校運営の主導権を女性宣教師に委ねること(校長を女性宣教師にすること)を条件に、かろうじて存続することになった。もちろん主導権問題は同志社英学校でも生じている。

 本来なら女学校にしても、英学校と同様に伝道者が養成されるはずだったが、当時の日本で女性の牧師は求められていなかったこともあり、現実としては女学校の教師あるいは牧師夫人となる卒業生が少なくなかった。いずれにしても同志社女子大学は、ただの私立学校として始まったわけではなかったこと、おわかりいただけたであろうか。