#5 大阪から京都へ─新島襄の同志社設立

人物

吉海直人(名誉教授)

 新島はキリスト教の学校を設立するために日本に戻ってきた。横浜は既に他の教団が進出していたので、横浜での学校設立は論外だったようだ。そこで新島は、アメリカン・ボードの宣教師ゴードンがいる大阪の川口居留地に赴いた。もう一か所、神戸も候補地としてあげられるが、神戸では既にデイヴィスが英学校と女子塾を立ち上げていた。新島にそれを手伝うという選択肢はなかったようだ。そこで消去法で大阪が残った。

 新島の学校設立には強い味方がいた。それはアメリカ使節団で知遇を得た明治維新の立役者木戸孝允である。新島は木戸の斡旋を受けて、早速、渡辺昇大阪府知事に学校設立を打診している。幸い学校設立に反対はされなかった。それどころか大金を寄付してくれる人(磯野小右衛門)まであらわれた。新島が普通の学校を設立するのであれば、大阪に開校できたはずである。ところが新島の考えている学校は普通の学校ではなかった。

 もうおわかりと思うが、新島はキリスト教の学校を作ろうとしていた。その目的は布教だけでなく、日本人の牧師を養成することだった。必然的に教師は宣教師が担うことになる。最大の問題はここにあった。宣教師が学校で教えられなければ、学校を設立する意味はない。同じ時期に梅花女子大学の前身である梅花女学校を澤山保羅が設立しているが、すんなり開業できている。それは海外の宣教師によるミッションスクールではなく、日本人が運営する学校だったからである。要するに宣教師及びその背後にある教団の存在が問題だったのである。

 これについて新島は、田中不二麿に手紙で問い合わせしている。学校で宣教師がキリスト教やその他の科目を教えることはできるかと。それに対して田中は、僧侶は教えてもいいが宣教師はダメだと答えた。キリスト教の禁止は解けたものの。宣教師が教えることはまだ許されていなかったのだ。また聖書は修身学という科目名にした方がいいと示唆している。

 この田中の回答の中にすべてが含まれている。学校に宣教師を雇い入れることがどれだけ困難だったか。そのことは大阪から京都へ移っても同じ事である。違っているのは、当時の京都府にいた槇村正直が木戸派だったことだ。さらに好都合だったのは、京都府顧問(嘱託)として山本覚馬がいたことだった。渡辺知事はキリスト教嫌いだったが、覚馬はキリスト教思想こそはこれからの京都の近代化に必須だと考え、むしろキリスト教の学校を誘致しようと考えていた。新島の出現は覚馬にとって渡りに船だったのだ。

 両者の利害が一致した。そのころの京都は覚馬が青写真を描いていたので、覚馬に反対する人はいなかった。槇村もアメリカ帰りの新島に協力的であった。同志社の歴史では、京都で学校を設立することの困難さが説かれているが、学校設立にさほど困難は伴っていない。問題は教師として宣教師を雇い入れることだったのだ。

 それにもかかわらず、同志社はデイヴィスやスタークウェザーを雇い入れらているではないか。たとえ聖書を教えることが禁止されているとはいえ、これは特別待遇としか思えない。同志社の歴史では艱難辛苦を乗り越えての開校としているが、むしろ田中や槇村の苦渋の決断をこそ評価すべきではないだろうか。おそらく宣教師を雇い入れる条件として、これ以外に落としどころはなかったはずだ。そうでもしないと、逆に田中や槇村に非難が集中するからである。女学校の校長問題にしても、田中の回答に宣教師は校長になれないとあった。これが当時の文部省の見解だったのだ。宣教師を雇い入れることはそれほど大変だったのである。同志社は、パーミリーなどの雇い入れが許可されなかったことに不満を抱いているようだが、宣教師を何人も雇い入れようとした同志社の方が常軌を逸していたともいえる。それにもかかわらず、多くの宣教師が同志社に雇い入れられているという事実から、やはり同志社は特別待遇を受けていたと考えるべきである。

 同志社はその設立に際して、文部省や京都府から特別待遇を受けていたのである。それは現在まで継承されているのではないだろうか。同志社に関わるすべての人は、そのことを真摯に受け止め、同志社人としての誇りをもって行動していただきたい。