人物
吉海直人(名誉教授)
同志社女子大学は女子塾として始まった。その女子塾(京都ホーム)は私的なものだったので、公的な認可など受ける必要はない。だから女性宣教師のスタークウェザーがヘッドとして運営しても問題なかった。ところがそれを正式な学校(女紅場)に格上げさせるとなると、京都府に開業願や外国人雇入願を提出しなければならなくなる。当時、外国人宣教師が、それも女性宣教師が校長になることなど、日本では考えられなかった。しかも同志社分校であるから、当然のように開業願は新島襄の名前で提出されることになる。同志社英学校のデイヴィスも同様だったが、外国人教師は書類上は雇われ教師の身分となることで、ようやく京都に在留する許可を得ることができたのだ。
要するにスタークウェザーが京都ホームで働くためには、新島が「同志社雇入米国教師デイヴィス厄介婦人アリス・ジェー・スタークウェザー二十七年九カ月を弊社分校女紅場へ雇入教授可仕候」という書類を届け出ることによって、はじめて京都に居住し教えることができたのである。これが当時の日本(京都)の実情だった。英学校の場合は新島もアメリカン・ボードの準宣教師だったので、新島が書類上の校長であっても特に問題にはなっていない。それに対して女紅場(女学校)では、名目(書類)上の校長と実質上の校長という二人校長体制(二重構造)が問題化したのである。それは新島が女学校の授業を担当していないからでもある。
特に女学校の場合、ウーマンズ・ボードの女性宣教師が主体的な役割を担っており、むしろ新島はペーパー校長のような存在でしかなかった。これについては既に本学名誉教授の坂本清音先生が、デイヴィスの書簡に、『女学校にはスタート以来、学内に誤解があった。それはスタートの仕方─学校にヘッドがいたままスタートしたこと─に問題があった。外国人の側は、女学校なのだから当然ヘッドは外国人女教師(この場合、ミス・スタークウェザー)と考えていたのに対し、日本人側は女性が学校を経営するという考えは全く理解できず、経営者は日本人(この場合、新島襄)と考えていた。』(『女性宣教師「校長」時代の同志社女学校上』同志社女子大学資料室15頁)と書かれていることを指摘しておられる。これは女子塾と女紅場(女学校)との違いが斟酌されていないことで生じたものかもしれない。同志社英学校では耐え忍んでいたデイヴィスも、さすがに女学校となると黙っていられなかったようだ。
この問題に関しては、経営者・校長・教師という区別が不分明であることに問題があった。女学校に関しては、学校の運営はウーマンズ・ボードからの資金と派遣教師が充てられている。そうなると実質的な経営者はアメリカの宗教団体ということになる。校長は書類上の新島と、実質的なスタークウェザー、あるいは日本側の見方とアメリカ側の見方の違いなのだが、では教師としての活動実績はどうだろうか。新島は女学校の教師だったのかといえば、そうではなかった。そうなると、明らかにスタークウェザーの方が女学校では重要な存在だったことになる。
ところで『完訳日本奥地紀行4』(平凡社)の「第五十二報キョウト・カレッジ[同志社英学校]」には同志社女学校のことが、『少女の定員は50人だが、今のところは18人に制限されている。教頭のスタークウェザー嬢しかいない上に、アメリカ人の助手も欠いたままになりそうなためである。学校では実務教育も行っている。スタークウェザー嬢は少女たちが日本の礼儀作法とよいしつけをきちんと身につけることにこの上なく気を配っている。』(79頁)とあって、スタークウェザーのことを「教頭」としていること、人手不足だったことを報告している。
なお京都で丸7年を過ごしたスタークウェザーは、病のために本国で静養することとなり、明治16年(1883年)5月5日に帰国している。その後の彼女の消息は不明だったが、近年になって1921年(大正10年)10月4日にカリフォルニア州サンディエゴで亡くなり(享年71)、マウント・ホープ霊園に埋葬されていることが判明した(八木谷涼子氏の調査による)。