人物
吉海直人(名誉教授)
女学校にしても、新島と覚馬とデイヴィスの三人で創立したといいたいところであるが、女学校は英学校の創立とは大きく事情が異なる。最大の相違点として、創立に際して新島の関与が希薄なことがあげられる。従来は英学校同様、新島が創立者で覚馬やデイヴィスはそれを助けたと語られてきたが、残念だがそうはいえそうもないのだ。
要するに新島の構想の中に英学校創立はあったが、女学校創立はなかった可能性が高い。女子教育の必要性を認識していたのは、覚馬でありデイヴィスであった。覚馬は『管見』の中に学校(男子校)とは別に女学(女子教育)の重要性を説いていた。だからこそ早々と京都に女紅場を設立していたのである。しかも覚馬は次のステップとして、キリスト教思想の女学校を構想していた。
ただし英学校とは違い、女紅場の私塾開業願は新島単独で提出されており、覚馬の連署はなかった。それは覚馬にそれなりの事情があったからである。というのも女紅場の担当受付は覚馬が作った勧業課なので、署名しにくかったのではないだろうか。覚馬はむしろ審査する側の人間だからである。もっとも女紅場に関しては、覚馬の署名がなくても許可されることがわかっていたのかもしれない。ただし外国人教師スタークウェザーの雇入願は、新島と覚馬の連署になっているので、覚馬が裏で動いていたことは間違いあるまい。
それはデイヴィスも同様である。同志社英学校はアメリカン・ボードの男性宣教師が雇入れられているが、同志社女学校の方は男性宣教師ではなく、ウーマンズ・ボードから独身の女性宣教師を雇入れている。スタークウェザーの派遣に関してはデイヴィスが中心的に動いていたのである。それよりもっと可視化できることがある。デイヴィスは京都で旧柳原邸に居住しているが、そこにスタークウェザーを住まわせただけでなく、女子塾の授業もそこで行っている。女子塾のすべてはデイヴィスの家で始まっていたのである。その意味でいえば、女学校最大の功労者はデイヴィスといっても過言ではあるまい。
肝心の新島はというと、何しろ英学校の運営とキリスト教の伝道に忙しくて、女学校に時間を割く余裕などなかった。新島を含む男性宣教師は女学校の授業を担当しておらず、代わりに男性宣教師の妻が女学校で教えることが多かった。そう考えると、新島の妻となった八重が女学校で教えたことも納得されるであろう。当然、女学校の運営はスタークウェザーに一任されていた。書類上は新島がヘッドであるが、それはあくまで書類上(代理人的役割)であり、新島自身が女学校の運営に口出しすることはなかった。
スタークウェザーは見知らぬ京都で日本語もわからぬまま孤軍奮闘していたのである。しかも人手不足もあって、なまじ寄宿舎の舎監に八重の母佐久を任用したことで、教育方針にずれが生じてしまった。佐久は洗礼を受けてクリスチャンになったとはいえ、キリスト教の女学校のことなど知るはずはなかった。まして京都ホームとして寄宿生活が教育の一環だなどと思ってもいなかったろう。だから寄宿舎では規則に縛られないアットホームな生活を第一に考えたようだ。それがアメリカ方式を貫ことするスタークウェザーとの軋轢を生むことになった。言葉の障壁で話し合いもうまくいかなかった。
ということで、本来ならば女学校の功労者として実質上の校長であるスタークウェザーの名前をあげるべきなのだが、女学校設立の準備段階ではまだ不在だったこと、そして女学校でわずか7年しか教えていないこともあって、スタークウェザーの存在感は軽いものになっている。こうなると女学校の創立者に関しては、はっきり誰とはいいにくいことになりそうだ。逆にいえば女学校を誰が作ったかなどは、同志社の歴史においてたいした問題ではなかったともいえる。強いていえば、新島を窓口にしてアメリカの宗教団体が資金と人材を送り込んでできた学校ということになる。